森美術館20周年記念展 ワールド・クラスルーム:③ [社会]01
「森美術館開館20周年記念展 ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会」。
【社会】はヨーゼフ・ボイスの板書から
ヨーゼフ・ボイス 「黒板 」(1984年 チョーク、黒板 186 . 5×193 . 3 cm 所蔵:東京藝術大学)は撮影不可作品。
森村泰昌
パロディであることがわかりやすく示され、その上で謎かけを仕掛けてくる森村泰昌の作品。意図が読み取りきれないときは悔しい思いをするし、その意図がわかればわかったで、複雑な心境になる。いろいろな意味で劇薬が仕込まれているなあと感じる。
そもそもマネの作品も、現代人として観ても作品の中に引きずり込まれるものだし、その上にさらに重さを上乗せている。そして美しいものだから、目が離せない。
アイ・ウェイウェイ(艾未未)
森村泰昌の「オランピア」の次は、漢時代(紀元前206年~西暦220年)の壺を落として割り、唐時代(618年 ~907年)の壺にコカ・コーラのロゴを描くという、攻めの作品が続く。
上の説明からすると、作家はそもそも漢時代の壺にコカ・コーラのロゴを描き、今回展示されているのは唐時代のもの(複数ある)ということか。どのくらい古いかは問題でなく、歴史の象徴として、壺という身近でしかも破壊しやすいものを選んだのだろうか(それが、ただ見かけたといった思い付きであったとしても)。
ものを破壊したり、文化財に手を加えるといった行為は、観ている者の心を傷つける。それを咎めるために我々は、必ず「何でいけないんだっけ?」という理由探しの作業をする。そこに現れる常識だとか、国によっては権力というものと、我々は向き合うことになる。
それに気づかせるのがアートなわけだけど、では作家はどれほどの傷を負うのか。余計なことではあるのだが、いつも気になってしまう。
シルパ・グプタ
展示室の隅で、女性の声によるサウンド・インスタレーションが展示されていた。マイクの前は無人。
ハラーイル・サルキシアン
今までの流れから、この14枚のアンダー目の街の紙焼き写真が、ただの風景写真でないことは想像できるのだけど、タイトルを見るとやはり衝撃を受ける。そして説明を読めば、人が1人も入っていないこと、早朝にあわせて撮影されていることも合点がいく。
痛みを感じる作品だからこそ
今、「歩く」ことに嵌っているので、特に作家たちについて考えながら、六本木界隈、青山霊園を歩く時間が好きだ。しばらく、こうしてここで振り返りつつ、美術館にも足を運ぶ、を続けてみようと思う。
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