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ショートストーリー劇場〜木曜日の恋人〜㊾ 『日本バンガル通信』

 近頃、若者たちの間でバンガルが再び脚光を浴びている。

 これは大変驚くべきことである。バンガルは日本において忘れられた存在となって久しい。

 私のようにバンガルの普及運動を行なっている者にとっては大変喜ばしいことである。

 約半年前のことだ。

 多くの若者たちに支持され、絶大な影響力を持つユーチューバーのチュー太氏が自身のチャンネルである「チュー太のチューチャンネル」内で「目指せ日本代表! マイナースポーツに挑戦」という動画を公開した。その動画内で取り上げられていたのがバンガルだったのである。このチャンネルは五百万人の登録者を持ち、動画は七百万回再生された。

 動画を見て興味を持った若者たちが、自分もやってみたい、と用具を揃えて練習に参加するようになった。日本全国で百人足らずだった競技人口が、今や数千人にのぼるという。そのほとんどが十代二十代だ。バンガル部が設立された大学も多くあるそうだ。いやはやインターネットの力というのはすごいものである。

 しかし、そのために今現在、バンガル用具が大変な品薄になっている。なにせこれまで需要がなく、多く生産されていなかったからだ。トランス棒や、スクエーカーなどといったバンガル用具はアマゾンやメルカリで高額取引されている。やむなく有り合わせの物でトランス棒を手作りして試合に参加した高校生が大怪我を負うという痛ましい事故が起こった。トランス棒は必ず正式なものを使うよう心がけていただきたい。ちなみにスクエーカーは手に入らなければ、キャベツやレタスを代わりに使うことも可能である。が、やはり専門メーカー製のものを使うに越したことはない。メチェットやマスキューレなどは比較的入手しやすいそうだ。

 先日バンガルの試合で知り合った青年たちと話していて気付いたことがある。どうも彼らの中には、この競技がつい最近誕生したものだと思っている人が多いということだ。そこで私は、そうした若者たちのためにここに、日本に於けるバンガルの歴史を簡単に記しておこうと思う。


 バンガルの起源には諸説あるが、最も有力なのは、「バンガリクトゥ」と呼ばれる中東での伝統的な競技がシルクロード経由でイギリスに渡り、十五世紀頃イギリスにおいて今のバンガルの原型が確立されたという説である。日本に伝わったのはそれから数百年後。明治時代、開国によって様々な西洋文化と共に伝来した。一八七五年に英国人のトマス・ランドルフが東京開成学校予科で教員に就くために来日。彼が日本にバンガルを伝えた人物であるとされている。

 バンガルは瞬く間に日本全国に広まり、同じ時期に日本に伝わった野球を凌ぐ人気競技となった。一九二六年には天覧試合が行われるほどであった。

 当時の日本人にどれほどバンガルが根付いていたかということは、夏目漱石の随筆からも窺うことができる。イギリスに留学していた一九〇一年、漱石はロンドン大学でバンガルの試合を観戦し、その時の感想をこう綴っている。

「しかしなぜであらう、本場の地でバンガウルママを観戦した余の胸に去来したものは、遠き故国への憧憬なのであった」

 バンガルが日本の国民的スポーツになっていった一方、日本という国は誤った方向へ歩みを進めていった。

 一九四一年に戦争が始まると、物資不足を補うために金属類回収の勅令が出され、バンガルは敵国のスポーツであることを理由にトランス棒が大々的に接収された。当然、トランス棒なしでバンガルをプレイすることは出来ないので、この時期に試合が行われた公的な資料は残っていない。

 終戦後、今度はGHQによりトランス棒の形状が刀を連想させるとして、武道と共にバンガルは禁止を命じられる憂き目にあう。一九五二年、GHQの占領が終わり制限が解除されたものの、もはやバンガルは忘れられたマイナースポーツと成り果てていた。

 再びバンガルの名が歴史に現れるのは六〇年代に入ってからである。

 全共闘の学生たちの交流会でどういうわけだかバンガルの試合が度々行われた。この一時、大学生を中心としてバンガルはにわかに活気づいた。六〇年代後半になり、学生運動が激化すると、機動隊に向かってトランス棒を振り回す学生たちが現れた。私はその光景を写真で見たことがあるが、バンガルを愛する者として、トランス棒がそのように用いられたことに心を痛める。

 そのことを引き合いに出したのかは分からないが、三島由紀夫が六九年に東大全共闘と行った討論会においてこのように発言していた。

「君たちが一言『天皇』と言えば、私は喜んで諸君と共にバンガルで一汗かこうではないか」

 七〇年代に入り、学生運動が下火になって、連合赤軍の事件が終結する頃になると、トランス棒が日本の過激思想の象徴であるように捉えられ、世間からは次第に忌避されて、バンガルはまた忘れさられてしまった。

 息を吹き返すのはそれから一〇年以上経った一九八七年のことだ。

 原田知世、野村宏伸主演の映画『ボクと彼女のバンガルDiary』が公開された。

 野村宏伸演じる冴えない大学生がひょんなことからバンガルと出会い、熱中し、やがて原田知世演じるヒロインのハートを射止める、という極めて単純な筋の映画であるがこれが大ヒットを記録し、大バンガルブームが起こった。日本中の大学生がバンガルに熱中した。「バンガろうぜ」という映画のキャッチコピーがその年の流行語大賞にノミネートされるほどだった。なにを隠そう、私もこの映画を見てバンガルを始めた一人である。今の若者には信じられないだろうけれど、バンガルが上手ければ女にモテる、という時代が日本にはあったのだ。しかしながら、バブル経済の終焉と共に、バンガルはまたしても表舞台から消えていった。

 そして二〇二四年……

 バンガルは三たび復活した。しかもこのブームは日本だけのことではない。世界各国で徐々に競技人口が増えており、二〇二八年ロサンゼルスオリンピックから正式種目になるのではないかと囁かれている。さあ、君もバンガルをはじめてみよう! バンガルはいつだって君たちを喜んで迎え入れてくれるだろう。今度の今度こそ、若者たちの力で一過性のブームではなく、バンガル文化を日本に根付かせてもらいたい。私が望むことは、ただそれだけである。



・曲 QUEEN / We Are The Champions


SKYWAVE FMで毎週木曜日23時より放送中の番組「Dream Night」内で不定期連載中の「木曜日の恋人」というコーナーで、パーソナリティの東別府夢さんが朗読してくれたおはなしです。
上記は2月29日放送回の朗読原稿です。

日本にバンガルを伝えたトマス・ランドルフは日本中にバンガルが普及することを見届けることなく病に倒れ客死した。生前の遺言により彼は日本で埋葬され、その墓は今も四谷にある。先日私は、ランドルフの墓に手を合わせ日本バンガルの発展を誓ってきた。
これを読んで一人でも多くの方がバンガルに興味を持ち、実際にプレイしていただけたら、筆者としてこれほど嬉しいことはない。

朗読動画も公開中です。よろしくお願いします。


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