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ショートストーリー劇場〜木曜日の恋人〜㊽ 『橋の上の物語』

 私がかつて住んでいた所は、大きな橋がある小さな町だった。

 人々は毎朝、徒歩や車でその橋を渡り、職場や学校へ向かった。

 橋は一級河川の上にかかり、全長は五百メートルはあった。幅も広く、車が片側二車線走行することができる。歩道は約百メートルおきに外側に向かって半円形に膨らみ、そのスペースにベンチが設えられていた。橋のちょうど真ん中にコンクリート製の台座があり、鐘が吊るされていた。晴れた日は、鐘の向こうに富士山を望むことができ、そこで記念撮影をすることが、町の新郎新婦の慣わしになっていた。そして、記念撮影をする若い夫婦の数と同じくらい、この橋から身を投げる者がいた。

 町の人々にとってこの橋は、生命の誕生と終わりを象徴するものとして、ある種宗教的な畏怖と共に存在していた。

 そのようなわけで、橋に関する都市伝説といった類いの噂話や迷信が、町には数多くあった。「橋を渡る時に決してふり返ってはいけない」などというような。

 実際に私自身、その町に住んだ二年の間に、橋の上で少し不思議な体験や、風変わりな人物たちに出会った。

 たとえば〈傘男〉、がその一人だ。

〈傘男〉。年齢はおそらく六十代、毎日いつも決まった所に姿勢よく立ち、じっと川の流れを見つめていた。いや、彼の後ろ姿しか見たことがないので、川を見つめているように見えた、というべきだろうか。そして彼は、どんな天気の日であろうと、真っ黒い傘をさして立っていた。だから人々は、彼を〈傘男〉と呼んだ。

「あの人はね、最愛の妻を病気で亡くして、気が違ってしまったんだよ。ああやって奥さんを偲んでいるってわけだ」

「いやいや、彼は東大を首席で卒業した天才数学者なんだよ。頭が良すぎて我々凡人には奇行にしか見えない振舞いをするのさ」

 そのような噂が、町で囁かれていた。

 ある者は、「傘」に着目してこう言った。

「ほら、神社で結婚式をする時に新郎新婦が和傘をさすだろ? 傘というものはだね、元来厄除けの役割りもあるのだよ。つまり彼は、この町を災厄から守ってくれているんだ」

 しかし誰も、〈傘男〉の素性は分からなかったし、彼の名前さえも知らなかった。

〈傘男〉には、そうした様々な憶測を呼ぶ面がたしかにあった。身なりである。

 彼は毎日違う背広を身につけていた。それはどれも、たったいまクリーニング店から引き取ってきたみたいに清潔で、上等な背広であった。夏には麻のスーツ、冬はカシミアやウールのコートを羽織り、背広の色彩に合わせた帽子を頭に乗せていた。反対に、傘はいつも同じで、けれどやはりこれも高級品と思われる、持ち手が木製の真っ黒い傘だった。

 彼の身なりは、毎日毎日橋の上で傘をさして立っている、という一般的とは言い難い営みにはそぐわないものに思え、私自身、彼がそのような人生に至った筋道について、想像を働かせずにはいられなかった。

〈傘男〉に直接理由を問いただす者は一人もいなかったため、噂のバリエーションはどんどん数を増していった。芸術家説、路上パフォーマンス説、悟りのための苦行説、かつて人を殺めたことの禊説。

 私がその町を離れる直前の、冬の出来事だ。もう日はすっかり沈み寒さが増した午後七時頃だった。仕事帰り、家に向かうために私は橋を渡っていた。〈傘男〉がベージュのカシミアのコートを着て、いつもの場所に立っているのが見えた。彼の隣には、二十代の若い会社員の男が立っていて、〈傘男〉に何か話しかけていた。その光景に私は足を止め、可能な限り彼らに近づいて様子を窺った。どうやら若い男は、〈傘男〉に、どうしていつも傘をさして立っているのか、と聞いているようだった。〈傘男〉はいっさい何の反応も示さなかった。業を煮やした若い男は、自分の方に向かせようとして〈傘男〉の肩に触れた。

「触るな!」と〈傘男〉は体勢を崩さずに怒鳴った。私はその時はじめて〈傘男〉の声を聞いたのだが、はじめて聞いた、と意識しないほど、その声は私のイメージ通りであった。私の他にも続々と野次馬が集まってきた。

「そんなことを聞いてどうするんだ?」と〈傘男〉は落ち着いたトーンに戻り、若者に尋ねた。

「知りたいのです。ただただ知りたいのです」と若い男は答えた。

「面白半分で聞いているわけじゃないだろうな」

「違います。僕は本気です」

「知ってしまったら君は、二度と今の君には戻ってこれないぞ。それでもいいのか?」

 若者は〈傘男〉の意味深長な言葉にたじろぎ、少しの逡巡ののち「はい」と答えた。

そこで〈傘男〉はようやく若い男の方へ体を向けた。我々野次馬の存在に気づき、彼は少し驚いた様子だった。私が〈傘男〉の顔をはっきり見たのも、それがはじめてだった。

〈傘男〉は我々に聞こえないように若者の耳元へ口を近づけ囁き始めた。まるで相合傘で愛を語り合う恋人同士のようだった。若い男は口を開け、目を見開いて聞き入っていた。

 話し終えると〈傘男〉は我々を一瞥し、くるりと背を向けて、またいつもの姿勢に戻った。若者はその場に立ち尽くして動かなかった。進展がないことが分かると、我々野次馬は三々五々散って行った。


 翌朝、職場へ向かうために駅へ向かおうと橋を渡った。よく晴れた日だった。

 途中で私は衝撃のあまりに足を止めた。〈傘男〉が立っていた。そしてその隣には、昨夜〈傘男〉から秘密を聞いた若い男が、同じように傘をさして立っていたのだ。

 私はすぐにでも彼らの所へ行き、聞きたかった。どうして傘をさして立っているのですか、と。もし本当にそうしていたら、私は今もあの橋の上で傘をさして川の流れを見つめていたのかもしれない。好奇心よりも恐怖心が勝り、私は彼らを素通りして駅へ向かった。

 あの町を離れてもう十年近く経つ。今この瞬間もやはり〈傘男〉たちは相変わらず橋の上で傘を広げて立っているのだろうか。あの時彼らに問いかけなかった自分の判断は本当に正しかったのだろうか。とりわけよく晴れた気持ちのいい日に、私はそんなことを考えてしまう。



・曲 Bob Dylan  /  Melancholy Mood


SKYWAVE FMで毎週木曜日23時より放送中の番組「Dream Night」内で不定期連載中の「木曜日の恋人」というコーナーで、パーソナリティの東別府夢さんが朗読してくれたおはなしです。
上記は1月18日放送回の朗読原稿です。

ケネディ大統領の暗殺現場にいた「アンブレラマン」と呼ばれる男をご存知ですか? 晴れた日の現場に真っ黒い傘をさして立っていた人物です。
狙撃手に合図を送っていたなど様々な説があり、事件に関与していたのではないかと言われています。(他にもバブーシュカ・レディと呼ばれる女とか)
映像や写真で残っているのですが、フィルムの荒さによって禍々しさが増幅されてとても不気味に見えます。
真相はどうなのでしょうか。気になります。

朗読動画も公開中です。よろしくお願いします。


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