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ショートストーリー劇場〜木曜日の恋人〜㊻ 『神宮でナイター』

一回の裏


 ずっと野球が嫌いだった。

 子供の頃、テレビで読売巨人軍の試合中継があると父親が必ず視聴し、他のチャンネルにすることを許さなかった。僕には野球の面白さが少しも分からず、それがまず最初のきっかけだった。水曜日に放送していたドラゴンボールのアニメが、野球によって休止になることも嫌だった。それから、そうとは知らず入学した高校が何年かに一度、夏の甲子園に出場するような強豪校で、その学校の野球部員である、というだけで横柄に振る舞う野球部員たちが嫌いだった。

 そんなわけで、これまで僕にとって野球とは、片方が球を投げて、片方が棒を振って球を打つスポーツ。それ以上のものになることはなかった。

 しかしながら人生とはなにが起こるか分からない。いま僕は明治神宮球場で野球の観戦をしている。生まれて初めて野球場で野球を見ている。東京ヤクルトスワローズ対広島東洋カープの試合だ。どちらのチームも今年の優勝は逃したのだと、隣にいる彼女が教えてくれた。彼女がどうしても野球が見たいと言ったのだ。僕は狭量な男だと思われたくない一心でついてきてしまった。


三回の表


 0対0のまま、まだどちらのチームもセカンドまで進塁することなく試合は進んでいる。

 彼を野球に誘ったのはほんの気まぐれだった。二人で青山あたりを散歩していると、スワローズとカープのユニフォームを着た人たちを見かけ、今日神宮で試合があることを知った。

 彼が野球を好きじゃない、どころか嫌悪しているってことは知っていた。だけどわたしはどうしても、今ここで野球が見たくなったのだ。彼は渋るだろうが、わたしに嫌われたくないからきっとついてきてくれるだろうという目論見もあった。当日券を買う列に並んでいると彼は、父親が野球中継を、とか、野球部員が、といった話を始めた。球場に入り、通路を抜け、目の前にグラウンドが開けると、その光景に圧倒され、彼はそれ以上野球に対する不満を言うのを止めた。

 初めて神宮球場の一塁側外野自由席に座って、三塁側のカープの応援団の方を眺めた。

 熱心なカープファンだったあの人のことをわたしは思い出していた。

 あの頃わたしは、よくあの人と一緒に、三塁側に座ってカープを応援していた。

 カン、と乾いた音が響いて広島東洋カープが一点先制した。


四回の裏


 これはいわゆる消化試合だ。両チーム優勝は逃したが、最初から組まれた日程に従い試合が行われている。就職先が決まり、残された学生生活を送る今の僕たちと似た状況だ。社会人になれば彼女とは会わなくなるのだろうか? 

 僕は彼女をどうしたいのだろう。年上の彼氏がいるとかいないとか、そんな噂を聞いたことがある。でもこうして二人で出かけるってことは……、いや、そういうことを割とフランクに考える性格なだけなのかもしれない。ああもう、どうして僕はこう考えすぎてしまうのだろう。これじゃあまるで見逃し三振。

 父親がテレビに向かって怒鳴る声が蘇る。

「馬鹿野郎! いい球見逃しやがって!」

 半袖から飛び出た互いの腕が時折触れ合う。横にいる彼女を見る。彼女は三塁側のカープ応援団を眺めている。そこにいる誰か一人を探し出そうとするみたいに。

 ヤクルトスワローズが同点に追いついた。


六回の表


 昨日の夜、あの人からラインが来た。「飯でも食いに行かないか」。返事はまだしていない。

 わたしに野球の面白さを教えてくれた人。野球だけではない、わたしに色々なことを教えてくれた人。三つ年上で広島県出身、カープと奥田民生をこよなく愛する人。それは父親から受け継いだものらしい。大学三年生の時に別れて以来会っていない。

 横にいる彼を見る。同い年で東京都出身の彼。

 わたしは彼にどうしてもらいたいんだろう。こうやって時々出かける仲で、なんの進展もない。居心地は決して悪くない。けど、得るものも少ない。毎回走者が残塁してスリーアウトって感じの関係。花占いでもするみたいに、いっそのことこの試合に運命を委ねてみようか。東京対広島。カープが勝てば、あの人とまた会ってみよう。もしスワローズが勝てば……。わたしの想像は膨らんでいく。彼と付き合って結婚して子供が生まれて、成長した子供に「ママはどうしてパパのこと好きになったの?」と聞かれ、「それはね、あの時ヤクルトスワローズが勝ったからよ」と答えているわたし。想像を歓声が掻き消す。

 広島カープ、2ランホームランで勝ち越し、3対1。


七回の裏


 野球に熱中している自分に気がついた。ピッチャーとバッターの駆け引き。間合いの大切さ。物事というのはタイミングが全てなのだ。僕は今、それを野球から学びつつある。人と人が親密になるかどうかも、タイミングは極めて重要だ。僕たちは適切な間合いを逃しつつある。

 しかし諦めてはいけない。

 バットを振らずして、ヒットを打つことは不可能である。これが僕がこの短時間で野球から学んだ一番重要なことだ。振れ、いい球を見逃すな。ホームランを狙う必要はない。

 ヤクルトスワローズの試合が僕に勇気を与えてくれる。宙ぶらりんな関係をどうにかしなくては。たとえ崩壊に至ることになるとしても。そんな気持ちが湧いてきた。僕は声を上げてヤクルトを応援した。

 スワローズ、一点追加で2対3。


九回の表


 カープの最終回の攻撃は、クリーンナップから始まる。追加点が入れば試合は大きくカープに傾く。わたしはこの試合がどのような結末を迎えてほしいのだろうか。カープの逃げ切り? ヤクルトのサヨナラ? それとも引き分け? あ、引き分けの場合どうしたらいいんだろう。いや、もう大丈夫。この試合がどうなろうとわたしの答えは決まっている。

 広島カープ、三者凡退で攻撃終了。


九回の裏


 1点ビハインドで迎えたヤクルトスワローズの最終回の攻撃。

 2アウト満塁、フルカウント。ヒット一本出ればサヨナラ。なんとドラマチック!

 カン。鳴り響く木製バットの音。空に舞い上がる打球。静寂が聞こえる。打球を見つめる観客たち。センターの守備が打球を見上げながら下がって追いかける。僕は彼女の手を握る。すべてがスローモーションのよう。

 行け、もっと遠くまで。

 もっともっと遠くまで、打球よ飛んで行け! 



・曲 milco 神宮でナイター


SKYWAVE FMで毎週木曜日23時より放送中の番組「Dream Night」内で不定期連載中の「木曜日の恋人」というコーナーで、パーソナリティの東別府夢さんが朗読してくれたおはなしです。
上記は9月28日放送回の朗読原稿です。

milcoの「神宮でナイター」という曲をモチーフに物語を作りました。
この曲を作詞作曲した菅原龍平さんの作る曲を僕は非常に愛聴しておりまして、いつか「木曜日の恋人」で取り上げたいと思っていたのでこの度それが出来て嬉しいです。
菅原さんは僕にとって十割バッターです。
以前組まれていたthe autumn stoneというバンドもとてもおすすめです。

朗読動画も公開中です。よろしくお願いします。


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