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倉橋由美子桂子さんシリーズ+慧君シリーズ

〈美しく醜い貴族のまなざし―桂子さん―〉


「夢の浮橋」。1970年の作品。桂子という若く美しい女性には耕一という恋人がいるのだが二人は実は……。

タイトル「夢の浮橋」は、まず藤原定家の「春の夜の夢の浮橋とだえしてみねにわかるる横雲の空」―先行する短歌の引用や源氏物語「夢の浮橋」の連想から読まれた技巧的な秀歌と谷崎潤一郎の「母恋もの」の中絶作「夢の浮橋」(下記のリンクから冒頭が読める)双方に架かっている。

ここで源氏物語宇治十帖についても少し話したい。宇治十帖―光源氏「雲隠」後の物語。「夢の浮橋」はその結末。
ここで主人公の薫―彼は「若菜」で語られる、光源氏の正妻女三の宮と柏木の密通による息子である。彼は大君を求めるが亡くなってしまい、その後は浮舟を求める。光源氏の陰画のように。
「夢の浮橋」は浮舟が薫に会おうとせず、薫が彼女を誰かが匿っているのだろうかと思う時点で終わっている。終わりらしい終わりでない「夢の浮橋」のように頼りない結末である。
倉橋氏の「夢の浮橋」も、主人公桂子の出生の秘密が扱われる。がそこに宇治十帖の(仏教色の強い)因縁的な暗さはない。どちらかと言えばギリシャ神話の、多神教的で大らかな気配がある。
なお「浮橋」とは水上に筏や船を浮かべ板を渡した橋のこと。(筆者はろくに考えず「何か浮いた橋」だと思っていたのでついでに載せておく)

物語を牽引する要素にまず桂子の両親と耕一の両親の夫婦交換遊戯スワッピングがある(SM趣味が入ってもいる)。―なお「夢の浮橋」というタイトルの小説にこの内容を持ち込むのは明白な確信犯だろう。
このため桂子と耕一は同腹の兄妹かもしれないし違うかもしれない―この謎が二人の恋を不安定にさせ、同時に読者の興味を促す。
ただこのテーマに加えて政治の季節が背景とされるとつい古びた通俗小説を連想してしまう―が実際は見事な作品なのだ。以下説明する。

冒頭の文章。

三月初めの嵯峨野は地の底まで冷えこんで木には花もなかった。桂子が嵐山の駅に着いたのは正午まえで、耕一と会う約束の時間にはまだ間があった。渡月橋まで歩いて嵐山を仰いだが、花のまえの嵐山は見慣れぬ他人の顔をして桂子のまえに立ちふさがっていた。

あるいは、

月曜の朝、桂子は庭に出て花をみていた。
夜来風雨の声が耳についていた桂子は、散った花の多少をみにおりたのだった。雨に打たれて散った花はそれほど多くはなかった。木蓮は丈夫そうな花をつけて地面から枝をひろげている。同じ木蓮科のこぶしもまだ花を残していた。一夜雨に打たれた白いこぶしの花は、ひとびとが願をかけて木に結びつけた紙片のようだった。

ここでは春の描写を引用したが、「夢の浮橋」は四季折々の京都の自然描写がひらがな混じりのゆったりした筆致、抑制された美しい比喩とともに描き出される。
ただ最後、結局桂子は山田氏(彼女の大学の教員)と、耕一はまり子という女性と結びつく。この結末はやや肩透かしである。二人の兄妹疑惑はあくまでも物語の引き立て役に過ぎなかった―


いや違う。小説の最後、桂子、山田氏、耕一、まり子の四人はスワッピングをする。そこで耕一は自分が桂子と兄妹関係にあるかもしれないと知って近づいたことを桂子に明かす。耕一は初めから自由意志による近親相姦を目指していた。

聖書には「原罪」という概念がある。人間の自由意志が悪を成したという認識。
ここで面白い展開がある。(ドイツの哲学者のフィヒテだかの説で)「悪を成すことが人間の自由の源である」という説が唱えられた。「原罪」論理の転倒である。もちろん間違っている。なのに魅力的である。ドストエフスキー「悪霊」の登場人物スタブローギン、小川国夫「或る聖書」の登場人物アシニリロムゾなどがこの危険な論理の体現者として立ち現れてくるがこれは割愛する。

この論理の魅力は人間が神に対して挑みかかるその恐れのなさにあるだろう。神から人間に与えられた「原罪」の認識を逆利用し、彼らは悪を成す自由意志を使って神殺しを企む(もちろん最後は神のいない自由に耐えきれず押し潰されるのだが)。
桂子と耕一は物語の殆どの間彼らの両親の
神話的乱交によって振り回され続ける。これは読者にとってもフラストレーションである。ギリシャ神話で人間の運命に手出しする神々の戯れよろしく、桂子と耕一(と読者)は彼らの両親という多神教的な神々に苦しめられる。
そこで耕一は自ら意志的に桂子―妹と関係を持つことで悪の自由を踏み台に神(親)殺しを目論んだのではないか……穿ち過ぎかもしれないが。

また話が逸れるのを許してほしい。
「桜は吉野、紅葉は竜田」―「桜なら吉野の桜、紅葉なら竜田の紅葉に限る」くらいの決まり文句だ。
これに比べてこの短歌を読んでほしい。
「生き難き此ののはてに桃植ゑて死も明かうせんそのはなざかり」岡井隆

この桜・紅葉と桃はどちらも「美」である。が前者が社会の合意として流通する「美」とすると、岡井隆氏の短歌の桃の花は孤立した「美」、たった一人の人間の目にのみ映る「美」である。このとき、「桜は吉野(略)」は社会的な承認の上に貨幣・コードのように成り立つ「美」に過ぎない。 
「夢の浮橋」が単なる二次的な―社会的承認の上に成り立つ「美」を扱うというのは正確ではない。しかし、舞台設定の京都といい四季折々の風景といい、そこには確かに既存の「美」の再生産の気配があるのも事実ではないか。
もちろんこれは倉橋氏の計算のはず。なぜなら初期の長編「聖少女」あるいは短編「腐敗」を読んだとき、そこにあるのはむしろ岡井隆氏の短歌に近い一次的な「美」なのだから。一次的「美」から二次的「美」へ―氏の転向は意志的なものと見るべきだろう。

平安王朝の和歌は美的世界を消費し尽くした後、退屈な決まり文句に堕していった(中世の連歌あるいは俳諧の誕生はこの既成和歌世界の衰弱が理由と聞く)。
あるいは「狭衣物語」―源氏以後の平安物語の一つであるこれは冒頭が本当に美しく、親である源氏物語と様々な短歌の引用から織りなされる藤と山吹の咲き誇る鮮やかな世界が描き出されている。しかし後半に至って文章が次第に駆け足になり粗く全体的な完成度としては源氏の後塵を拝すると評価される。

だから二次的な「美」―引用や決まり文句的「美」というのは、貨幣と同様に消費財なのである。それは徐々に消費され衰弱していく。
このとき、「夢の浮橋」は最後の最後まで二次的な「美」で埋め尽くされている。
それは三島由紀夫が憎んだ「美」、現実に干渉せず現実から干渉されない特権つきの「美」、社会の中で安穏と眠る「美」であり―耕一の行為はそれを打ち崩す。彼は社会的な「美」を滅ぼし孤独な個の「美」を打ち立てる―近親相姦という悪のなかで。
最後の一文を引用して終わりたい。

桂子はそのまま耕一の胸に頭を寄せて、二つの耳で、運命の機械のように動いている心臓の音と、川の音とをきいていた。

倉橋由美子「城の中の城」。1980年の作品。「夢の浮橋」続編。桂子さん(本作から人物は何らかの敬称とともに語られる)は大学教師の山田氏と結婚生活を営んでいる。しかし山田氏は桂子さんに黙ってキリスト教に入信してしまう。桂子さんは徹底して拒絶するが―

まず残念なのは「夢の浮橋」のスワッピングが桂子さんと耕一くんの間では不首尾に終わったと明かされること。そこが壊れると「夢の浮橋」の感興がどうにも削がれてしまう。

いきなり文句で始めたが、かなり面白い作品である。前作の和的美に対して本作では全編に渡って漢詩が出てくる(筆者も知識はないが雰囲気で楽しんだのでご心配なく)。 
ただ、前作が結婚話、政治の季節、スワッピングと通俗的要素を扱ってそこから超然としていたのに比べると、「城の中の城」はやや振り回された感じがある。特に話が桂子さんから他人の話に逸れると物語のテンションが大きく下がる。
だから読んでいるときは「夢の浮橋」より面白いのだが、より深く印象に残るのは「夢の浮橋」なのである。 
それから本作、通俗的な面白さとして夫の山田氏のキリスト教に立ち向かう桂子さんの奮闘ぶりがあるのだが、桂子さんの理解は―創作の必然にせよ―やや浅い。

(直接本文とは関係のない下りで飛ばしてもいい)「非信仰者にとっての世界を平面と思ってほしい。そこでAという論理とBという教義がぶつかるように思える。しかし、信仰者の世界は立体なのだ。その縦軸が信仰である。このときぶつかっていたAとBはねじれの位置になって交わらない。ついには自分が何にこだわっていたのかさえ分からなくなる。たとえばキリストの奇跡は近代理性の立場からすれば否定するしかなく福音書の内容も後世の脚色抜きには読めない。筆者の信じる親鸞の教えの支えとなる浄土三部経も今では釈迦入滅後数世紀経ってから書かれたことが明らかになっている。
だが信仰を持つ人間にとってそんなことはどうでもいいのではないか。奇跡のあるなし、教えの正しさを信仰の名のもとに軽んじるのではなく、その二つはそもそも関係のないことではないか。歴史研究や理性の認識と信仰はねじれの位置であって、片方が片方をことさら論駁する必要はない―と筆者は思う。」(追記:もし興味のある方は遠藤周作氏の「死海のほとり」をお薦めする)

だからあまり難しく考えず、桂子さんたちの洒脱でペダンティックな会話を聞き続けていれば充分楽しい小説で、まさに「知的娯楽小説」とでも呼びたい作風だ。

ただ、最後桂子さんが結局キリスト教を捨てた(「棄てた」というより「捨てた」くらいの軽さである)山田氏とよりを戻し子どもまで作るのは頂けない。桂子さんなら熊野の悪巧みをする菅原道真やら後醍醐天皇やらの亡霊を引き連れてバチカン市国のローマ法王に殴り込みをかけるくらいはする気がするがどうか。

この後「シュンポシオン」と「交歓」があるのだが面白く感じられなかったのであまり書かないでおく。「シュンポシオン」はどうせならギリシャ哲学でも使って華やかにすればよかったと思うのだけど。特に元総理の入江氏という人物が退屈に感じた。倉橋氏の人物像の魅力はやはり、死や夢と近接する生の危うい気配にあって、政治というただ人間の生だけに奉仕するシステムの統治者の存在は無粋に感じる。


〈夢幻の淵にて―慧君―〉

慧君シリーズは慧君という美少年が出てくるシリーズ。
先に番外編の「ポポイ」について。1987年の作品。舞さんという桂子さんの孫娘が主人公。何ということもない話で、美青年の首が舞さんの元に送られてくるのだが話は展開せず青年の首は次第に知的昏睡状態となり(確か)庭に埋められる―これだけの話が面白いのは、もう倉橋氏の筆の力と呼ぶほかない。乾いた死の気配が貴族的な怠惰と隣り合う美しい中編である。

「幻想絵画館」(1991)「よもつひらさか往還」(2002)「酔郷譚」(2008)のうち、今回は「よもつひらさか往還」をメインに扱いたい。
というのは「幻想絵画館」はインターネットの描写が今からするとやや古びた気配があり、話も添えられた絵(山水図からクレーまで)と関係づけることに力が削がれ倉橋氏の資質が充分発揮されておらず、「酔郷譚」は「よもつひらさか往還」の反復の気配が強いためである。

話の構造は基本的に九鬼さんと名乗る謎多き―どうも人間ではないらしい―バーテンダーのもとで慧君がカクテルを飲む、すると不思議なことが起きるも、最後は現実世界に還ってくる―タイトル「よもつひらさか往還」通りの短編集である。
完成度は作品によるが、とりわけ「芒が原逍遥記」が素晴らしい。
九鬼さんと異界を訪れた慧君は「女たちに首がないのは、それぞれに鬼である客に食われたのではないか」―初めは人形と見えた首なしの彼らと「交歓」する―その後帰る段になって「(略)異形のものたちは、風の芒を吹く音ともすすり泣きともつかぬ声を上げながら迫ってきた」。
ラストも見事なのだがそれは読んでの楽しみとしてもらって、この「異界」のリアリティは素晴らしいのではないか。
基本的に慧君シリーズは彼が死にどれだけ近づけるかで作品の完成度が決まってくる。それが弱いと「酔郷譚」の「玉中交歓」のように焦点のぼけた幻想小説になってしまう傾向がある。その点、「芒が原逍遥記」は読者さえ異界に連れ込むまさに「鬼気」迫る名品。ぜひ読んでほしい。
 
そう、「夢の通い路」(1989)を忘れていた。昔に読んだきりで忘れているのだが、確か恵子さんが色々な歴史上の人々と愉しむ高雅な短編集だったはずである。

蛇足と思うが一応「アマノン国往還記」(1986)について。これは明白な失敗作である。確か受精を寓話的に書いた作品だったと思うが、本来は短編として成立させるべきだったのでは。


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