最近読んだ本

池澤夏樹「短編コレクションII」から三篇。

サルマン・ラシュディ「無料のラジオ」。
あらすじがなかなか衝撃的だった。
無料のラジオを貰うため断種手術を受けた、俗っぽい未亡人に惚れている青年の話なのだ。
この一部は実話である。
インディラ・ガンディー首相―いわくインド版サッチャーとも呼ばれたこの首相が、実際にインドで断種政策を実行したらしい。
国家による人口抑制政策として中国の一人っ子政策は有名だが、インドでそんな政策が行われていたとは知らなかった。

カズオ・イシグロ「日の暮れた村」。
奇妙な短編で、池澤夏樹氏の言葉を借りると「書かれ得た長編を蒸留して短編にしたもの」ということになる。
あらすじ。フレッチャーという老人がイングランドのある村を訪れるが、住民たちは彼に様々な―それほど好意的とは呼べない―思惑を抱いている。
◯読んでからずっと既視感があって、意外なところだった。「エヴァンゲリオン新劇場版:Q」である。
脇道に逸れるので手短に話すと、碇シンジという少年が大型ロボットのエヴァに乗り使徒と呼ばれる敵と闘うアニメである。
ところがアスカとレイという性格の好対照な少女たちとの恋愛模様あり、ロボットのダイナミックな戦闘シーンあり、魅力的な謎ありと読者を楽しませていた前二作に比べてQは難解だわ暗いわ、おまけに前作の破からいきなり十四年が経過していて、筆者自身見終わった後も何も分からなかったことを覚えている(ただ今は前二作よりQが好きだ)。
 
話を戻すと「日の暮れた村」も本来はこの話の前に何十年かの空白を埋める「ストーリー」が必要なのだ。だがそれはない。
フレッチャーがいるのは、やはり現実世界である。そこに共感・納得できる物語は存在しない。人は不条理を受け入れ生きるしかない。
◯また、村上春樹氏の「一人称単数」―突然バーでどこかの水辺で友人に酷いことをしたと説明もなく詰め寄られる「私」の姿も連想させられた。
逆に、夏目漱石の夢十夜の第三夜は近代的な自我を持つ「自分」が、「今から百年前(略)のこんな闇の晩に、この杉の根で、一人の盲目を殺した」というある「物語」に飲み込まれる話として読めないか。
物語の不在がもたらす不条理も、物語がもたらす自己意識の不在―例えば二次大戦の愛国神話だ―もどちらも恐ろしいものだ。



※以下は性的な話を含みます



ミシェル・ウェルベック「ランサローテ」。
あらすじ。ランサローテ島―スペインのカナリヤ諸島の一つのリゾート地で性的愉楽に耽る「私」の物語。

ミシェル・ウェルベックをちゃんと読んだのはこれが初めてだが、人づてに「鼻持ちならない差別主義者の男性が性的らんちき騒ぎを起こす小説を飽きずに書いている」という噂だけは伝わっていた。期待が裏切られず何より。
話としてはこれ以上深まりそうもないが、その辛辣な眼差しが魅力的だった下りをいくつか引用させてほしい。

p477.ヨーロッパの小国ルクセンブルクについての言説―

(略)実際のところ国というよりは、あちらこちらの公園に散らばった実態のないオフィスや、税金逃れを図る会社の郵便箱の集積というべき代物なのだった。

ルクセンブルクはヨーロッパのタックス・ヘイブン的な役割を引き受けているらしい。ペーパーカンパニーも多く、これはそれを皮肉った言葉。

p484.地球外生命体についての言説―

地球外生命体との最初の遭遇があったのはシナイの乾いた山の中だった。二番目はピュイ・ド・ラソラの死火山のクレーターの中。第三の遭遇の舞台となるのは、太古のアトランチスの地であり、火山に囲まれたこの地にちがいない。

二番目のピュイ・ド・ラソラはかつてフランス人のジャーナリストがここでUFOを観測したらしい。
問題は「シナイの乾いた山の中」である。
読者の側でニヤッとしてほしいからできれば解説は挟みたくないが、話すとここはモーセが十戒を授かった地である。授けたのは神ヤハウェである。
この文章をもう一度読んでほしい。

p501.「私」に旅の道連れリュディが残した伝言の一節―

そもそも人類の共同体は、理由はどうあれ、これまでも常に、自らの上位に立つ原理に支えられることなしには、組織として成り立ち難かったのではないでしょうか?

リュディは(直接言及はないが)ED(勃起不全)であり、その救済(!)のためにインテリジェント・デザインを信仰する。高度知的生命体が世界を創造したという教義で、アメリカ大統領の、まだ動物園のゴリラを就かせた方がましだと言われたジョージ・W・ブッシュ大統領が信仰していたと聞く。これはその文脈で出てきた一節。なかなか的を射た発言だと思うがどうか。

神を茶化す表現は自己批判性が不十分なとき単なる悪趣味に堕してしまいがちだ。フランスのシャルリ・エブド事件も―人命を奪うテロは決して許されないが―その一つと聞いた。この点、ウェルベックはなかなか上手に立ち回っていると思うがどうだろう?

柴田元幸訳「アメリカン・マスターピース 準古典篇」から三篇。

ゾラ・ニール・ハーストン「ハーレムの書」。ハーレムというのはかつての黒人街の名称。(公民権運動のさなか暗殺されたマルコムXもここを活動の拠点としていた)。
話はイケイケの黒人の若者ジャズボがハーレム街に出向くだけの話だが、それが旧約聖書の文体で書かれている。その結果がこうだ。

さて今喇叭トランペット鳴りて、曲尺八サキソホン咽び泣き、諸人もろびとこぞりて起上たちあがり、二人又二人フロアに降り立おりたち、いやもうシェイクしまくっております。

p32

面白さが伝わったか不安だが、他には1ページ前のこの下り。

しかしてジャズボ、踊りのやかたおもむき、数多の喇叭ホーンむせび泣き、太鼓ドラムス轟き、洋鈸シンバルの高らかに鳴り響くを聞けり。而してジャズボの足目覚め、フロアを間断なく打ち、踊り方がわからんもんだからひたすら自分の胸を叩いてたんですね。

p31

寒暖差が激しく心が落ち着かない今日この頃、ぜひ読んでパーッと笑ってほしい。

ウィリアム・フォークナー「納屋を燃やす」。少年の目線から見た父親の物語。サートリス家という一家の物語でもある。主題にあるのは南北戦争の「英雄」としての父親像と「略奪者」としての父親像の乖離。
何しろこの父親アブは荒くれ者で、地主の納屋を燃やすことで支配に反発し続けるろくでなしなのだ。
◯中上健次氏の秋幸サーガに出てくる火を付け人の土地を奪う父親の浜村龍造の姿はここに一つの着想元があるだろうか。
◯また、大江健三郎氏の「みずから我が涙をぬぐいたまう日」(タイトルの主語は「天皇陛下」だ)から「水死」に至る戦中の父親像へ―引いては天皇制への批判を視野に入れた一連の作品群とつなげて読むのもいいかもしれない。
◯同タイトルの作品が村上春樹氏にもある。サイコスリラー的な怖さがある。「夜の暗闇の中で、僕は時折、焼け落ちていく納屋のことを考える。」というラストの一文が見事だ。

ネルソン・オルグレン「分署長は悪い夢を見る」。話らしい話はないのだが無性に面白い。もしタランティーノ監督の「レザボア・ドッグス」を見ている方なら、冒頭のあの無駄話が延々続くと思ってほしい―こんな感じに。

「お前の職業は?」分署長は邪気もなく、ひょろひょろの若者に聞く。
「俺、仕事(本文強調点)するんです、署長さん」
「何の仕事だ?」
「だから、俺の職業(本文強調点)で」
「職業とは?」
「やだなあ、署長さん」
「はっきりさせられてよかった。刑務所に入ったことは?」
「あります―二一〇日」
「罪状は?」
「わかりません」
「ただブチ込まれて、二一〇日経って出されたのか?」
「そうです」
「二一〇日刑務所に入れられる理由、普通は忘れんもんだぞ」
「やだなあ(本文強調点)署長さん、もうずっと前の話ですよ、一々覚えてやしません」
分署長はを上げた。「お前、ドブに行きつくぞ、爪先上に向いた格好で。次」

「飲み屋の奥の部屋で眠っちまったんです」次の男が釈明した。「出ていこうとしてたんですけど」
「儲け持って逃げようとしてたってことだな」
「俺、これからまっすぐな人間になります」
「まっすぐ刑務所に戻るってことだな。お前もうおしまいだよ」(略)



マーガレット・アトウッド「青ひげの卵」。医者の妻のサリー。彼女は幸福な人生を掴んだはずだが、なぜか説明のつかない不安が消えない―
◯ある短歌を思い出した。

どうせ死ぬ こんなオシャレな雑貨やらインテリアやら永遠めいて

「春戦争」より

陣崎草子氏の短歌である。「オシャレな雑貨」「インテリア」とあるから、場所はインテリアショップだろう。
壊れても壊れても、買われても買われても型が古びるまで決して売り場から消えないインテリアは「永遠めいて」いる。
だがここにいる私はそうではない。「どうせ死ぬ」―壊れたら二度と治らない。その私がインテリアショップにいるちぐはぐさ、ここにいる私の生の一回性とインテリアの―引いては資本主義の―半永久性との耐えがたい断絶。
◯ひどい誤読かもしれないが筆者は一応このように読んだ。

「青ひげの卵」の話に戻ると、サリーは作中様々なカルチャーセンターに通っている。
現在は小説創作のカルチャーセンターに通っていて、タイトルの「青ひげの卵」はそこでサリーが手がけた【「青ひげ」の続編を書く】課題で創作したもの。 

また小説の終盤、サリーの夫はサリーの馴染みの家具屋の女性と浮気をしていることがわかる。が彼女はその事実をうまく呑み込めない。
ここから深読みだけれど、サリーを本当の意味で苦しめるのは、どこにも彼女の生を本当の意味で捉えるものがないことにある。
どれほどカルチャーセンターに通い詰めても、そこにあるのは人間があたかも永遠に生きられるかのように運営される退屈な催しでしかなかった。
人の生の一回性を資本主義は忘れ、それと同時に死の姿も見失ってしまった。いわばゴールテープ抜きで続くマラソンのようで、人はどこで走り止めていいか、どのくらいのペースで走ればいいか分からない。死のない場所に本当の生もない。足のある幽霊のように、資本主義社会の人間は―私たちは生きているのではないか。

思ったより長くなってしまった。読んでくれてありがとう。

(余談)ネルソン・オルグレンは寺山修司が愛した作家としても知られている。その短歌の有名作に、

海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手を広げていたり

がある。
「海を知らぬ少女」に少年が海の大きさを伝えようと懸命に「両手を広げて」いる―イノセントな光景が浮かぶ名歌だが、やや邪推のような読み方があるのでお知らせしたい。
それは「海を知らぬ少女」が海を見ようとするのを「麦わら帽のわれ」が「両手を広げて」必死に止めているというものだ。
この読みだと世界観は一気に危うくなる。一体なぜ少女が海を見ようとするのを「われ」は止めるのか。
そこには仄かなエロティシズムと神話の禁忌の気配が漂い始める。
まず誤読だからあまり気にしないでいい、ただ面白いウソ程度に覚えてくれると嬉しい。



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