現代日本文学を読む②今村夏子「星の子」ほか一冊

今村夏子氏の「星の子」。まず装画が美しい小説だ。植田真氏―絵本のイラストを数多く担当していらっしゃる方によるもの。
水彩の山々の上を流れ星が一つ流れ、その上に星空が広がっている。寒色でまとめられた奥行きのある風景画だ。

ただ、この美しい風景の印象に騙されてはいけない。というのは本作には「うっすらした気持ち悪さ」が常に広がっている。普通といえば普通の世界だが何かおかしい。この点、恐怖の対象が鮮明なホラーの方がまだ気楽だと思える。
以下あらすじなど紹介していく。

あらすじ:林ちひろは中学三年生。出生直後から病弱だった娘を救いたい一心で、ちひろの両親は「あやしい宗教」にのめり込んでいき……

この「あやしい宗教」とは『金星のめぐみ』という水が万病を治すというもので、典型的な現世ご利益型の新興宗教である。
あらすじにある通り、幼少期のちひろは「三ヶ月近くを保育器のなかで」過ごした虚弱児で、その後も立て続けに病気になる。特にひどかったのが湿疹で、「真夜中にかゆみで泣き叫ぶわたしのそばで、なすすべもない両親は一緒になっておいおい泣いた」。
それが『金星のめぐみ』で「わたしの体を洗」うと、三日でみるみる赤みが引いたのだ。

こうして一家はすっかりこの新興宗教にのめり込んでしまう。そしてゆっくりと不幸になっていく。 
ストーリーがそれほど強く前に出てくる小説ではないのでこちらで少し端折らせてもらうと、例えば主人公の姉は高校一年生で家を出ていくし、教団に紹介された職についたちひろの両親はどんどん貧しくなっていく。
特に印象的なエピソードとして、やはり同じ信仰を持つ一家の「ひろゆきくん」の食べ残した「ホタテと赤貝とかっぱ巻き」をちひろの両親が食べる下りがある。ここのちひろの「食べ残したものを喜んで口に入れる人間のほうがどうかしている」というモノローグはあまりに惨めだ。
◯貧しさに合理的な理由があるならまだいい。不条理な理由で―この場合は新興宗教への信仰によって―そこにある貧しさほど人間を損なうものはない。

逆に魅力的なのは、ちひろとクラスメイトの「なべちゃん」の関係だ。親友と呼べるようなものではないし、下手すると仲が悪くさえ見えるが実際は不思議な絆で結ばれている。例えば以下の下り。

(注:この前、ちひろは憧れの南先生(実際はプライドだけ高い凡庸な男)のことで友人にからかわれ、ごまかすように『金星のめぐみ』を「ゴクゴク」飲んだ。以下はその続き)
そのようすを見ていたなべちゃんが「もっと大切に飲めば?」といった。「高いんでしょその水」
「コンビニの水よりは高いけど、うちは会員価格でまとめ買いしてるから」
「ひと口ちょうだい」
わたしはペットボトルを差しだした。小学生のころからなべちゃんは何度もこの水を飲んだことがあった。そのたびにまずいといった。
「まずい」
やっぱりいった。
「じゃあ返して」
まずいということはないのだ。味はふつうだ。
「あたしならジュース飲むけど」
「ジュースと比べないでよ。特別な水なんだから。有名な学者が認めてるんだから。」
「有名な学者って誰?」
「名前忘れたけど、どっかの大学の偉い人」
「その学者実在するの?にせものか、架空の人物なんじゃない?」
(略)

p105.106.

本作の最後の一文は「わたしたち親子は、その夜、いつまでも星空を眺めつづけた。」これだけ読むと重松清か宮本輝のラストのようだ(筆者は彼らを婉曲に貶している、品がないので読者は真似してはいけない)が、実際には幸せとも不幸ともつかない、漠然とした不安を残す終わり方だ。
何しろちひろの両親は結局信仰を手放してはいない。これからちひろが成長するにつれて起こる様々な困難を、金も主体性もない彼らが支えられるとは思えない。


まとめ

文庫版には小川洋子氏と今村氏の対談が載っていて、そこで今村氏本人がちひろの両親は「弱い」(不正確な引用だが)とおっしゃっていたのを覚えている。
そう、ちひろの両親は決して悪人ではないのだ。水の宗教に入信したのも、元はといえばちひろが苦しんでいるのを見て居ても立っても居られなくてなのだから。
だが彼らには自己内省が欠けている。親戚のおじさんがこっそりペットボトルの中身を水道水に入れ替えたときも彼らはひたすら怒るだけだった。自分たちが間違っているかもしれない、これまでの人生が全てただの過ちだったかもしれない。それを認めるのは怖いことだから。
まだキリスト教やイスラム教のような歴史の長い宗教なら、信仰を絶ってなお、その人に信じただけの痕跡が確かに残る。そこには人間の生の苦しみに肉薄した教えがあるから。だが、ちひろの両親が信じた教えはそうではない。蓋を開けてみれば驚くほど空っぽの、なんの意味もない宗教だ。だから否定できない。疑似家族的な教団のコミュニティを離れてしまったら、彼らに残るのは空っぽの、漠然とした生の重みだけだ。
この世にはどんな美しい夢もきれいな夢も喰らいつくして、汚泥のような糞に変えてしまうバクのような存在がある。たとえば二次大戦期の人々の純粋な感情が軍国主義という暴力と繋がれたように。ちひろの両親の過ちは、子どもを思う純粋な心をあまりにたやすく自分たちの外にあるものに明け渡したことにある、と筆者は思う。


町田康氏の「口訳古事記」。
あらすじ:イザナキとイザナミの国生み、アマテラスの「天の岩屋」ひきこもり、何度も殺されては甦ったオオクニヌシの国作り…。奔放なる愛と野望、裏切りと謀略にみちた日本最古のドラマの画期的な大阪弁訳。

目次で見ると以下の通り。
神xy(注:男女のイザナギとイザナミ)の物語
スサノオノミコト
大国主神おおくにぬしのかみ
天之忍穂耳命あめのおしほみみのみこと邇邇芸命ににぎのみこと
日本統一
垂仁天皇すいにんてんのうの治世
日本武尊やまとたけるのみこと
応神天皇おうじんてんのう
仁徳天皇にんとくてんのう

基本的にケラケラ笑いながら読めるので思ったよりも読みやすいのだが分量があり、一つ一つ扱うと本記事がパンクするので要点だけ話したい。
まず、「神xyの物語」〜「天之忍穂耳命(略)」と「日本武尊」については、どこかで聞いたことのある話が続き特に読みやすい。火に火をぶつけ消した日本武尊のエピソードはかっこよくて好きだ。スサノオの暴れ放題もいい。天照大神の下に皮をはいだ馬を投げ込むなんて実にイカしてると思う。そこで仕えていた女性が女性器を服を作る機械で刺して死んでしまう下りは素直なエロティシズムの開放を感じる。ポリコレもどこ吹く風である。いつかギリシャの神々もここに混ぜてみたい。

筆者もうろ覚えの知識だが、確か古事記は前半が神話、後半が(擬似的)歴史だったはず。本作だと「日本統一」以後が後半に当たるか。
なぜこの構成を古事記が取るかというと、天皇は神の子孫だというのに神通力も起こせないし普通に死んでしまう。「あれ?こいつ神の子孫でも何でもねえんじゃねえの?」と疑われるのを避けるため「いやぁ〜、ほんとに神の子孫っす、子孫なんスけど、先祖の神が色々ヤラカシ?やっちまって、パワー失っちゃったんすよたははのは〜」(町田氏の文体に寄せてみた)―つまり天皇の正当性を示しつつ、人間天皇を神の系譜に連ねるために古事記は書かれたという。

本作で一つだけ気になったのは、42ページのスサノオについての「発達障害というのだろうか、(略)秩序だった行動が一切できない」という一文。実際に障がいのある方に配慮の欠けた書き方ではないか。


古事記は数奇な運命をたどった古典だ。本居宣長に担ぎ出され、ついには大日本帝国の天皇国家体制を支えるために利用されたが、元々絵本のような、子どものイキイキした語りの面白さに満ちたこの神話に国家の正当性やら生硬なイデオロギーやらの担保は無理な役割のはず。この町田氏の自由気ままな口語訳で、ようやく古事記も先人たちのわがままな解釈から離れ本来の楽しさを取り戻せたのではないだろうか。

退屈な解説ばかりで申し訳ないので、本文で面白かった下り(ほぼ全ページ面白いのだが)をいくつか引用する。

―イザナギとイザナミの国造り―

「あなたの身体はどんな感じになってますか」
「こんな感じです」
「いいね。われはこんな感じです。この二箇所は恰度ちょうどはまる感じです。これをはめて二柱が一体化して、そのパワーで国土を生みません?」 
「いいね」
ということで二柱は一体化、まあ簡単に言えば交合をすることにした(略)

p11

当芸志美美命たぎしみみのみことが次期天皇の座を巡って腹違いの三神を邪魔に思い、ついに殺害を決意する場面―

「うーん。どうしようかな」
と考えた当芸志美美命はあれこれ思い悩んだ結果、これを殺すことにした。
「うん。やはり殺そう。それが一番だ」
思わずそう言った当芸志美美命に伊須気余理姫いすけよりひめ(三神の母に当たる美貌の神)が問うた。
「だれを殺すのですか?」
「は、いま朕、なんか言った?」
「はい。やはり、殺そう。とかなんとか」
「あー、違う違う。やばい、疱瘡ほうそう、って言ったんだよ」
「なんすか、それ」
「疱瘡とか流行ったらやばいなあ、民衆が苦しむなあ、と思って、思ったことが思わず口から出たんですよ。天皇になるのに邪魔な日子八井命ひこやいのみこと神八井耳命かむやいみみのみこと神沼河耳命かむぬなかやみみのみことの三皇子を殺そうなんて、まったく思ってないよ、朕」
「あ、そうですか。よかった。」 
「あったりまえじゃん」
「じゃ、わたし、ちょっと用を思い出しましたので」
「うん、じゃあね」

p225.226.

本牟智和気御子ほむちわけのみこに言葉を喋らせるため白鳥を捕まえようとする従者たちの会話―

「こんな追いかけてもなんにもならへんど」 
「ほな、どないせぇ言うね」
「網や、網。網、仕掛けて罠、作ろ」
「ほんまや、なんで今まで気いつけへんかったんやろ」
「アホやからちゃう」
「認めたくないが、認めざるを得ない」

p275.

―仁徳天皇が、彼を嫌う太后の元を訪れ贈った歌―

つぎねふ 山代女の 木鍬きぐわ持ち  
打ちし大根 さわさわに が言へせこそ 打ち渡す 八桑枝やぐわえなす 来入り
(大意:来ちゃった)

p460

どうでもいいが、この後に三島由紀夫の「軽皇子と衣通姫」を読むと寒暖差で風邪になりそうだ。

(追記)町田康氏の人物たちは内面がない。奪われているといおうか、剥ぎ取られているといおうか、外面だけがある人間たちはときに滑稽でときに悲惨であり、とにかく驚くほど虚ろなのだ。
その怖さは本作では古典という枠に収まりそれほど表に出てきてはいない。町田氏は古典翻案の次は何をするのだろう。楽しみだ。


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