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「親と喧嘩した」に憧れる

わたし、今日はどうかしてました。だって朝マスクのことでお父さんとけんかになりそうになったから。で、負けてしょうがなくしていったけど、2時間目くらいで鼻水がついちゃった。自分のなのにネバーとしててきもちわるかった。

日記より

友達のいう、「親と喧嘩した」に憧れていました。日記には、「けんか」と書いてありますが、私は親と喧嘩できたことは大人になるまでありませんでした。親からの言いつけに対して主張して、それを否定され納得できないまま上から押さえつけられて終了。喧嘩は勝ち負けがあるけれど、うちの場合はそもそも喧嘩ではないので常に自分の主張は通りません。妥協案すら出されません。親の意見は絶対。どんなに控えめに異を唱えても、反逆だと認定され返り討ちに合いました。

「親の言うことが聞けないのか」。私の嫌いな言葉の1つでした。これが聞きたくなくて自分の意見なんて押し込めたほうがいいと思うくらい。子どもとはいえ、言語能力は年齢とともに成長していくし、学校で様々な価値観に触れられるので、正直親は言葉を尽くして言うことを聞かせることが難しくなっていたのだと思います。子どもながらに「説得させてみせる」と思っていたので恐らく生意気だったしイライラさせていたと思います。だからこれ以上何も言わせない、口をつぐませるために即効性のある言葉だったのでしょう。

確かに「これ以上何を言っても無駄だな」と諦めたので即効性はありましたが、自分の意見を口にできなくなりました。親にとっては育てやすいいい子になりましたが、都合よく利用されやすい大人に成長しました。

また、父には言うことを聞かないと、つねられる叩かれることもあり、恐怖心で言うことを聞いていました。大人になって喧嘩したときに、「子供の頃はあんなに言うことをちゃんと聞いていい子だったのに」と言われて唖然としました。ただの恐怖政治なだけだったのに。

子どものいうことを聞いてばかりでは、家計が回らなってしまうこともあるだろうし、そうでなくても子どものためにもよくないとは思います。でも、頭ごなしに否定して何でも言うことを聞かせるのも私は違うと思います。子どもの成長に合わせて「〇〇ちゃんはそう思うんだね」「そういう考えもあるよね」と一旦は受け止めてほしかった。そうすれば、「なんとしてでも説得して言うことを聞かせよう」と子どもの私も意地に思うことはなかったでしょう。北風と太陽の北風タイプの両親だったなと思います。

意見を否定される環境で育つと、大人になってからも否定に敏感になります。単なる反対意見や注意にさえ、人格否定されたような気持ちになります。彼氏や夫には、自分の意見を通そうと無意識にコントロールしてしまったり、意見が通らないと愛されていないように感じてしまいます。今は、否定されることがまず起きないように、自分の意見や考えをもたないようにしようとしがちです。とはいえ、意見や考えをなくすことはできないので、目を背けてなかったことにしているだけだと思っています。

これからは、自分に敢えて「どう思う?」と聞くようにしたい。私自信が私の意見や考えを「そう思っちゃうよね」「わかるよ」と受け止めてあげたい。否定されても、少なくとも自分自身は味方だから大丈夫。そして決して人格まで否定されているわけではないと思えるようになりたいなと思います。

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