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憩いの間に

年末の一瞬。

あれやこれやとしている内の合間の時間。

日常でもあるそんな時間。

その合間に人々は自己の流儀でもって一服の時を迎える。

スマホに意識を移すも良し。
眼を瞑り、脳内に静寂の時を与えるも良し。
遠くの景色を眺めるも良し。
他人と談笑するも良し。
少し仮眠をとるも良し。

そのような隙間時間には敢えて何もせず、休息を取るのも束の間の一日の中の重要な時間であるのかもしれない。

この年の瀬の束の間のそんな時間。

自宅にいる時にはコーヒーを飲みながら、ほっとする時間でもある。

入れ方はインスタントでも、引いた豆でもどちらでも構わない。

珈琲を伴って意識を明確にせず、ぼんやりとする事が多分好きなのだろう。

そこにはあえて並び立てる言葉はいらない。

その際に好んで使うコーヒーカップがある。

大分県は日田市の北部に位置する源栄町皿山で生産される小鹿田焼き(おんたやき)という器。

民芸運動の提唱者、柳宗悦が賞賛しイギリス人陶芸家バーナード・リーチや益子焼と縁の深い濱田庄司らもその地に訪れ賞賛したとされる。

日常使いの器が主で、その技術は代々一子相伝であり9件の窯元がその伝統(約300年)を受け継いでるとか。

飛び鉋(とびかんな)や、刷毛目(はけめ)、櫛描きなどが特徴で人気の高い器でもある。

そしてあくまでも主観だがお値段もお手頃で、長くに渡ってそれぞれの家庭の食卓に寄り添い、主張せず、だが存在感を全く出さないわけではないという奥ゆかしさが「用の美」を兼ね備えているのではないのかと思ったりする。

素朴で力強い、派手ではないがしっかりと主張する装飾…。

自分が持っている小鹿田焼きのコーヒーカップは外側には飛び鉋の技法が施されて、たっぷりの濃い土色の釉薬がほどこされている。

そして内側は間違っているかもしれないが、白の化粧土が味わいのある白さを醸し、その上に透明釉がほどこされる仕立てのカップだ。

その姿形は外観の飴色のニュアンスを携えた土色も相まって、冬場には土物としての温かみさえ感じてしまう。

気に入ったコーヒーカップである。

使っているのは季節に問わず、年がら年中使っている。

暑かろうが、寒かろうが、コーヒーを飲みたい時にはその小鹿田焼きのコーヒーカップを使う。

この年の瀬の今もそうだ。

入れたコーヒーの湯気を上げて、そのカップは何事もなく佇んでいるように見える。

そしてコーヒーを飲む。

この一年もしっかり使わせて頂いた。

っとカップの中を見ると前々から何となく思ってはいたが、白さが少しづつコーヒーの茶渋によって黄ばんでいるように見えてきた。

それは違うかもしれないが…。

気になるといったら気にはなるのかと思うが、その白の上に乗ったほのかな渋みが一つの味わいさえ生み出しているように思えてもくる。

外観色の趣きと中の色の具合が絶妙な配合にさえ見えてくるのである。

まあ、自分の管理の怠惰からくるのかもしれないが、この一年活躍してくれたお陰でもあるのか。

積み重なった一年分の渋み…。

そのコーヒーカップを見ていると己のこの一年の心に沁みた茶渋、渋みみたいなものを思い出したりする。

日常生きていれば色々な事がある。

この色々な経験というものは一つの茶渋みたいなものか。

本当に苦い渋みもあったり、甘さを伴うマイルドな渋みもあったり、心が沸き立つような渋みもあったり…。

そしてその渋みは完全に消える事なく人間のどこかしらに「茶渋」のようにして残っていく。

それが人生の経験というやつか。

カップを見ているとそのような渋みを全く消す事もなく、むしろ味わいとしてそのものを特徴づけているようにも思える。

ある意味一つの理想的な姿なのかもしれない。

日々を過ごしてゆくとカップのように茶渋のようなものは人に残ってゆく。

それが日常を過ごすという事か。

何も渋みを全く消すことに意識を持っていく事はない。

その茶渋が自分を良い方向に特徴づけるように、人間は意思があるので持っていく事ができるのではなかろうか。

そんな事を飲み干したコーヒーカップの底に残る一滴のコーヒーの雫を眺めながら、ふと振り返っていた。

今年も良い一年だった。

また来年も小鹿田焼きのコーヒーカップにはお世話になる。

そして自分もこのカップのように良い経年変化が出来るように意識をしていきたい。

年の瀬に飲むコーヒーもまた味わい深いものだ。



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