自作自演の奴隷の物語からの解放
この世界の夢の奴隷になってしまっている自分
これは自作自演の夢の私たちの物語です。
私は生まれながらにして奴隷の身である。
奴隷である私には自由がない。
奴隷である私はいつも虐げられてばかりである。
それでも奴隷である私は主人(支配人)に仕えていくしか生きる術がないのだ。
主人(支配人)に反逆したとして、奴隷はさらにひどい仕打ちを受けることになるだけである。
主人(支配人)から逃げ出したところで、どこへも行き場がない。
いずれにせよ捕らえられてひどい仕打ちを受けるか、そうでないとしても、どこかでどのみち野垂れ死にするかだ。
いずれにしても希望などない。
私はこの身を削りながら奴隷として生きていくほかないのだろうか。
奴隷であることにウンザリしているというのに、どこにも希望がない。
奴隷の身である私は、所詮、主人(支配人)の囚われ人として生きるほかなく、主人(支配人)なしではもはや生きてはいけないのだ。
以上が、奴隷という宿命の私たちの物語です。
この世界の奴隷となってしまっている私たちに真の自由はありません。
あるのは絶望だけです。
希望があるとするなら、光があるとするなら、「この世界が夢である」ということを思い出すことだけだということです。
奴隷である自分から解放されるために
私たちは、この世界の法則の奴隷となってしまっているといえます。
例えば、お金の奴隷、仕事の奴隷、人間関係、家族関係、健康問題における奴隷であったり、、、と、この世界の法則のあらゆるものに縛られているということが、その証です。
この世界の中でいくら自由を探そうとしても、やっぱり私たちはこの世界の法則の中に幽閉されていて、苦痛、苦しみから逃れることはありません。
そのような私たちにとっての真の解放はどこにあるのでしょう。
そのことについて答えてくれている数あるスピリチュアリティ(霊性の道)を、非二元とか一元論のスピリチュアリティと呼ばれているものです。
唯一の救いの道とは、この世界は自分が見ている夢にしかすぎなかったのだと思い出すことにあります。
それを、「目覚め」「悟り」と呼んでいるわけです。
ただし、「これは夢だ、幻想だ、何も起きていないのだ、神からの分離は起きていないのだ、、、」といったことをいくら自分に言い聞かせていったとしても、何の助けにもならないといえましょう。
つまり、この世界を否定していっても、この世界で自分が経験していることを否定していったとしても何の意味もないということです。
私たちは真の問題を自覚/認識しないかぎり、問題からの解放はあり得ないということです。
この世界が問題なのではありません。
この夢が問題なのでもありません。
夢を見ていることが問題なのでもありません。
夢の中にも、夢そのものにも、問題はありません。
唯一の問題は、自分で夢を信じているということです。
つまり、自分から夢にパワーを投入している、ということが問題なのです。
もっとわかりやすくいえば、自分から夢に思い入れをしている、自分から夢に対して深刻になろうとしている、ということです。
でも、その真実は否認されたまま、隠されたままになってしまっています。
まったく忘れてしまっているということです。
そのことが自覚/認識されていないがゆえに、夢が保持されているということです。
真の問題、真の原因は何か?というなら、
自分が自分で奴隷となった夢を見ているということ、
そして、
その夢を自分で信じているということ、
それが問題、原因だということです。
「自分で信じている」とは、それが夢であるにもかかわらず、自分が被害者、犠牲者になることで夢をリアルにしようとしている、ということです。
そのことを認識していくことが、私たちがこの夢から解放されるための鍵となるものです。
「自分から信じた」ということをまずは自覚/認識していくことです。
それによって、その訂正は可能となるのです。
その訂正の方法が、自分が信じていることの一つ一つを疑問視していくことです。
それが、イエス、聖霊が私たちに求めていることであり、それが、コースの実践を通して私たちがしていくことだといえましょう。
そうするとき、隠されていた扉が開かれていくことになります。
聖霊によって光がもたらされるとき、つまり、聖霊(正しい心)の教師と共に見るとき、私たちはすべてが夢(虚偽)であったことを思い出すことになります。
それが、「赦し」というものです。
私たちは「赦し」という手段を通して、この夢から目覚めていくのだということを忘れてはなりません。
そして、私たちはその「赦し」についてコースを学んでいるのだということです。
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