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「リラックスする」「いまここにくつろぐ」という言葉に騙されないように


私たちには学ばなければならないことがある

重要なことは、いまここにリラックスすること、いまここにくつろぐこと。

そんなふうにノンデュアリティのティーチャーさんやノンデュアリティのスピーカーさんたちは言います。

でも、そのような実践はほとんど役に立たない、助けにならないといえるでしょう。

というのも、実践してみれば分かることですが、それではうまくいかないからです。

不安や恐れといったネガティブな感情にかれられているときなど、特にそうです。

そうでなくても、リラックスすればいいと頭ではわかっていても、実際のところ、私たちはリラックスすることがありません。

むしろ、自分に正直になって内側を観察していくなら、リラックスどころか、いつもざわついていようとする自分を認識するはずです。

その自分はいまここにくつろぐどころか、あえて平安を避けようとしているということが明らかになるはずです。

そう、自らあえて動揺をつかみにいこうとしている自分を自覚/認識することができます。

怒り、不安、心配、惨めさ、孤独感、罪悪感、、、

平安やくつろぎを避けるためなら、それは何でもいいのです。

むしろ、平安やくつろぎではないもののほうにしがみつこうとしている自分が自覚されるはずです。

それが何を意味しているのか?というなら、

本当のところ、私たちはリラックスなどしたくないのだということです。

コース(奇跡のコース/奇跡講座)が教えていることを理解するようになるとき、そのことがはっきりと自覚/認識されるようになっていきます。

コースの教えをさらに理解するようになるなら、私たちはなぜそうなのか?、つまり、なぜ平安になれないのか?についても、はっきりと理解するようになります。

そうなるとき、ようやく私たちは平安(の教師)を選ぶことができるようになるのです。

ようするに、なぜいまここにくつろぐことができないのか?その原因を理解して、そして自覚/認識していないかぎり、私たちはけっして平安や幸せにはなり得ないということです。

それゆえ、私たちは学ばなければならないのです。

つまり、私たちの無意識における精神力動ついて知る必要があるということです。

リラックス、いまここにくつろぐ、ということだけでは何の助けにならないということを知るべきです。

私たちには学ばなければならないことがあるのだということです。

なぜならば、私たちは自己の本質に関わる重要なことを忘れてしまったからです。

言い換えるなら、私たちは忘れてしまったものを思い出すために学ばなければならないものがあるのだということです。

コースは、そういうことを私たちに教えてくれています。

そういう意味で、コースはこの世界にいる私たちにとってとても助けになる霊性の道であるといえます。


「自我を咎めずに見る」というコースの実践

なぜ、私たちは安らいでリラックスすることがないのでしょう?

コースでは、そのことについて心理学的側面から明瞭に述べられています。

簡単に申しますと、

もし自分がリラックスするならば、そこに神の記憶が入り込んでくることになり、そうなるならば、「自分」という個のアイデンティティーが消滅してしまうということを無意識のレベルで知っているからです。

それゆえに、私たちはそうなることを恐れて、無意識の精神力動に突き動かされて、静かな心になろうとはしないわけです。


”神の記憶は静かな心に訪れる。葛藤のあるところには来られない。”(T-23. I.1:1 )

奇跡講座/中央アート出版社


私たちの無意識的なところでは、平安(静かな心)に留まるならば、そこに神の記憶が訪れて「個の自分」が消滅してしまうことが分かっていて、それをひどく恐れているのだということです。

何度も申しますが、それは無意識レベルにおける精神力動なので、まったく自覚されていません。

でも、そういうことについて知っておくことは賢明であるといえるだけでなく、とても重要です。

というのも、そのことを知らないなら、リラックスできずにいつも緊張状態にある自分と戦うことになるだけですし、それどころか、ますますリラックスとは真逆のほうに向かうことになってしまうからです。

私たちは「リラックスすること、くつろぐこと」という言葉に騙されないようにしなければなりません。

そうではなく、リラックスすること、くつろぐことに対して防衛(抵抗)しようとする自分に気づいていくことが、私たちにとってとても助けになるということを知っておきましょう。

つまり、その自分(自我)を咎めずに見ていくのです。

そうしていくことによって、防衛(抵抗)しようとする力(パワー)は弱まっていきます。

コース(奇跡のコース/奇跡講座)では、そのような実践をしていくということです。

そしてそれが、「自我を咎めずに見る」ということの意味です。

自我を変えようとしたり排斥しようとしたりして、自我と戦わないこと。

そうではなく、自我と戦っていることに気づいたなら、それをOKとはしない!という実践が、私たちがしていくことです。

そのような実践ができるようになるためにも、私たちは自我についてもっと知る必要があるのです。

そのためにコース(奇跡のコース/奇跡講座)形而上学があるのであり、だからこそ、私たちはそのコース形而上学をしっかり学び、そして理解することが求められているということです。


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