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神仏習合

 日本の宗教をいま一つ分かりにくくしている原因はこの「神仏習合」にその原因の多くがあるに違いないようです。例えば、「八幡様」にしたって、「八幡神社」というくらいですから神様だと思うのが当然です。鎌倉の鶴岡八幡宮に初詣する人々だって、社頭で柏手(かしわで)を打ってお辞儀をします。

 ところが、その一方では「八幡大菩薩」という称号もあるからややこしいですね。戦国武将の旗印などに「南無八幡大菩薩」など掲げているのを、映画や絵画で見たことがあります。言うまでもなく「南無」も「菩薩」も仏教の用語です。一体全体「八幡」は神様なのか仏様なのか、たぶん、日本人のほとんどはこの問題について、明快な解答を考えることもないでしょう。

 日本人ほど宗教に関して「いいかげん」というか、寛容な民族はおそらく世界でも珍しいのではないのかなと思います。神前結婚式を挙げ、キリストの誕生を祝うついでに彼女へクリスマスプレゼントを渡し、死ねばお寺に葬られる。お宮参りがあって、お寺参りがあって、家を新築する建前の儀式では神主さんが来て、お彼岸にはお坊さんが来ることが今はないようですが昔はあった記憶があります。

 一方で、神仏以外にも日本には儒教思想に基づいた礼儀作法も多いようです。要するに何でもありですね。しかもそれで上手く行っているところが不思議です。この寛容さは、古代日本が「神仏習合」という摩訶不思議な宗教体系を創出したところに、その根拠があるように思えてなりまません。

 「神仏習合」とは難しいことを省略させてもらい、ごく簡単に言えば、日本古来の「神」をその当時、大陸から伝来した仏教を「仏」よりワンランク下の存在と位置付けたことがその原因であるようです。早い話、神は仏の「仮の姿」だとする考え方です。所謂「本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想」です。例えば、徳川家康は死んで神になりますが、その名称は「東照大権現」というようです。権現とは仮の姿のことです。「仏」が家康という「神」の恰好をして現れたといった意味にとれば分かりやすいですね。

 神様にしてみれば、ずいぶん馬鹿にされた話ですが、仏教が伝来して間もなくの奈良時代にそういう思想が定着しました。どうしてそうなったのかには、色々な説がありますが、たぶん、大陸から来たお坊さんに大陸の医学の知恵があって、日本の神様では治せなかった天皇等偉い人々の病気を平癒したために朝廷の信任を得て、それ以来、仏が日本古来の神の地位に取って代わったといったところが真相でしょう。たぶん。

 それまでの「神」は主に卜占(ぼくせん--卑弥呼に代表される)によって物事を決めたり政治を行ったりして、祈ることで病気を治したりといった具合に、科学や理論とは程遠いことをしていました。元々、原始的な宗教は自然の偉大さや不思議さ、得体の知れない現象などに対する、素朴な「恐れ」から来ているのかもしれません。説明できないことは全て神様のせいにした。「カミナリ」は「神鳴り」です。「天の恵み」というように、雨が降るのも降らないのも神様の思し召しだと考えたようです。
 
「地鎮祭」をやる。山の神、地の神は怒りっぽいので、気を鎮めて頂こうというものです。まして古代はそれが徹底していました。洪水や旱魃(かんばつ)も神様の気まぐれのせいだから、生贄を捧げてとにかく祈ることしかしない。積極的に治水工事に立ち向かう気持ちや知恵はなかったようです。
 
 そこへゆくと仏教は神と比べて多少、理論的で説得力がある。ましてやその仏教を語る大陸から来た仏教者達は、医学、製鐵、土木工事などの高いレベルの技術力を持っていたから信頼もされる。見たこともない薬で病気が平癒するのもそうですが、堤防や運河を作ったりして、治山治水に立ち向かうのも一般人の目には奇跡と映ったのでしょう。「弘法大師が地面に杖を立てることで水が出て温泉が湧いた」というのは、弘法大師空海が大陸で井戸掘りの技術を学んできたためだと解釈することもできます。
 
 こんな奇跡を見せつけられたのでは、神の上に仏が君臨すると考えないわけにはいかなかったに違いありません。おまけに、仏様は優しくめったに怒りません。怒り狂ってカミナリを落としたり、大風を吹かせたりする神様とは対照的です。
 
 「神から仏へ」という宗教変動が大和朝廷の様相を一変させました。飛鳥時代の587年、時の大和朝廷の2大勢力の1つ、神様派の物部守屋一族が仏教派の蘇我馬子一族(聖徳太子含む)に滅ぼされてしまう。ただし、天皇家は神様の家系だから、何もかも仏教一色というわけにはいきません。差し障りがないように神様派を立てながら仏教を導入しなければならない。
 
 そこで採用されたのが「神仏習合」です。神といえば神、仏といえば仏、摩訶不思議、曖昧模糊、両方に花を持たせる方法です。とは言っても神道が仏教の下風に置かれたことは否定しようがありません。この怨念は神様派の中に炎々と燻り続けました。それが時を得て一挙に爆発したのが明治初期に起こった「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」の嵐の原因なのかなと思います。約1,300年の怨念は深く大きい。全国で寺院が破壊され、仏像が焼かれた。坊さんの中には慌てふためいて、看板を「寺」から「神社」にかけ替える者もいました。王政復古は同時に目覚ましい神様の復権でもあったようです。「神仏習合」はこのような歴史をたどり、善し悪しを超えて、結果として、日本文化の基礎の一部分を担っているとも言えると私は僭越ながら考えます。

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