見出し画像

左利きが左利きについて思うこと色々

以前、こんなつぶやきを投稿した。

投稿したのは2か月前だけれど、自分の中で結構鮮明に残っている言葉だ。
だから、こんな風に思ったきっかけを今回は文字に起こしていこうと思う。


4月から住む新しいアパートの契約をした時のことだ。

担当の方と契約の最終確認をし保険の説明を受けた後、必要事項を書類に記入しているとき話しかけられた。

「今少し雑談をしてもいいですか?」

特に断る理由もなかったので、「あ、はい」と答える。

「2歳になる娘がどうやら左利きみたいで、、
 右利きに矯正させようか悩んでいるんです。
 左利きで何か困ったこととかありましたか?」

私が左手でペンを持ち文字を書いていたから、思わず聞いてしまったのだろう。

矯正─。
久しぶりに聞いた。正直あまり気分のいい言葉ではない。

自ら好んで左利きになったわけではない。なんとなく気が付けばそうだった。右利きの人もきっとそうであろう。
それなのに、左利きであることが間違っていて、正しいほうである右に直しなさいと言われているかのようだ。どちらかが正しいなんてあるはずがないのに、数が少ないからという理由で数が多いほうに合わせなさいとまるで排除されているような気がする。

そもそもペンを左手で握っているからなんだというんだ。ペンを右で持とうが左で持とうが、同じ「文字を書く」という行為に変わりない。ほかの動作にも同じことがいえる。

とはいえ左利きであるがゆえに苦労したことも多くある。特に小学生の時にその様に感じることが多かった。

図画工作の時間があまり好きじゃなかった。理由は、はさみを使うからだ。
当時も左利き用のはさみはあったが、私はその存在を知らず右利き用のはさみを左手で使っていた。当然、うまく切れない。クラスのみんなは難なく切れているのに、何で私だけ。そう思うことが一度や二度じゃなかったし、実際にうまく切れないことをからかわれた。
(その後右手ではさみを持つようになり徐々に慣れることができた。)

習字の時間もそうだ。今の教育現場でどのように指導されているかわからないが、私が小学三年生の時「習字は右でかきなさい」と先生に言われたことがある。鉛筆で書いているときは何もいわなかったのに何で習字だけ?そう思ったけれど、私は先生に言われた通り筆を右手に持ちかえた。利き手じゃないから力の加減が思うようにいかないし、そもそもまっすぐ書くことも難しい。字を大きく書けば多少のアンバランスさはカバーされるけれど、小筆で自分の名前をかくのが本当に苦痛だった。教室の壁に貼りだされたみんなの習字の中で私の文字が不格好で妙に浮いているように見えていた。
(今考えると、「習字は右でかくもの」なんて決まりはないし、その先生の単なる固定観念だったと思うが、当時の私はそういう考えには及ばずただ言われたことに従っていた。)

年齢が上がっていくうちに、そういった左利きのコンプレックスを感じることは少なくなっていった。それでも日常で感じる不便さがふとした時に現れる。駅の自動改札機では左手を右手側にクロスさせなければ通りにくいし、手帳型のスマホケースが少し使いにくい。横書きをすると書いた文字を左手でこすってしまい、授業終わりに左手を見てみると手のひらの小指側が真っ黒だ。ボールペンもインクがうつりにくいときもある。

ここまで左利きに関する愚痴のようなものを羅列した形になってしまった。誤解してほしくないのだが、私は左利きであることをいやだと思っていないし、右利きに変えようと思ったことは一度もない。

家族の中で左利きは私だけだ。しかし両親は
「持って生まれたものを直す必要は全くないし、大切にしなさい。」と左利きを否定せず、個性ととらえてくれた。
本当にありがたい。おかげさまで私はありありと、のびのびと育つことができた。
確かに左利きゆえにつまずいたこともあったけれど、それは左利きだったからこそ気づけたことだ。特に疑問を感じることもなく、”ふつう”に暮らしてる人がいる一方でそうでない人がいる。このことに早く気付くことができたのも、自分がいわゆる少数派に属していたからだ。

そして社会は変わり続けている。ありがたいことに、左利きの先輩方が声を上げてくれたことや技術のおかげで、左利きの人をとりまく世界は変わり続けている。左利き用の製品がたくさんあるのもそうだ。

冒頭で不動産の方に左利きの相談をされて「久しぶりだ」と感じたのは、デンマーク留学のことがある。クラスメートにも左利きの人がいたが、その子と左利きに関する話題をあまりしたことがなかったし、ほかのクラスメートにも「あなた左利きなのね」と言われたことがなかった。大学の先生やインターンシップ先でお世話になった先生もそうだ。唯一左利きであることを確認されたのは、アウトドアの授業でファイヤースターターを使った時のこと。なかなか火を起こせなかった私に、左手で扱うコツを教えたくれたのだ。彼らには、右手だろうが左手だろうが、ただ火を起こす行為としてうつっていたのだろう。利き手など関係ない、その無関心さが心地よかった。

あのとき、私は不動産の人になんていったのか覚えていない。
だけど右に直させようとしてほしくないと思ったことは明らかだ。

確かに今の日本社会は基本的に右利きの人をベースに作られているから、右手を意識して使うようにすれば、日常生活を多少なりともスムーズに送ることができるかもしれない。しかし、持って生まれたものを否定してまでも得られる価値はあるのだろうか。社会はどんどん変わっていくし、今後左利きの不便さを感じることはもっと少なくなっていくだろう。(と願いたい)
そして左利きの人が自ら選択するのと周りの人が強制するのでは、同じ利き手を変えるのであっても中身は全然違う。私は親になった経験はないが、娘さんの今後を思うがゆえに悩んでいることは、なんとなくではあるが想像できる。しかし、本人の意思関係なく多数派の人に合わせるのは、多様性がうたわれる現代において逆行しているのではないかと違和感を抱いてしまう。
なにより幼少期という吸収率が高い時期に、利き手を理由に行動を制限してしまうと、純粋な好奇心を育む機会を奪ってしまったり発達過程に影響を
及ぼしたりすることにつながりかねない。

不動産会社の人と話してから既に2ケ月が過ぎた。どうか2歳のあの子が、利き手に必要以上にとらわれずのびのび過ごせていますように。

そして願わくば、利き手にかかわらず、適度な無関心さが心地いい社会でありますように。






この記事が参加している募集

多様性を考える

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?