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それでも私は、貴方にとっての、

「愛は祈りだ。僕は祈る。僕の好きな人たちに皆そろって幸せになってほしい。
それぞれの願いを叶えてほしい。暖かい場所で、あるいは涼しい場所で、とにかく心地よい場所で、それぞれの好きな人たちに囲まれて楽しく暮らしてほしい。最大の幸福が空から皆に降り注ぐといい。
僕は世界中の全ての人たちが好きだ。名前を知ってる人、知らない人、これから知ることになる人、これからも知らずに終わる人、そういう人たちを皆愛している。
なぜならうまくすれば僕とそういう人達はとても仲良くなれるし、そういう可能性があることで、僕にとっては皆を愛するに十分なのだ。
世界の全ての人々、皆の持つ僕との違いなんてもちろん僕は構わない。人は皆違って当然だ。皆の欠点や失策や間違いについてすら僕は別にどうでもいい。
何かの偶然で知り合いになれる、ひょっとしたら友達になれる、もしかすると、お互いとても大事な存在になれる、そういう可能性があるということで、僕は僕以外の人全員のことが好きなのだ。
一人一人、知り合えばさらに、個別に愛することができる。僕達はたまたまお互いのことを知らないけれど、知り合ったら、うまくすれば、もしかすると、さらに深く強く愛し合えるのだ。僕はだから、皆のために祈る。祈りはそのまま、愛なのだ。
祈りも願いも希望も、全てこれからについてこういうことが起こってほしいとおもうことであって、つまり未来への自分の望みを言葉にすることであって、それは反省や後悔やらとはそもそも視線の方向が違うわけだけど、でも僕はあえて過去のことについても祈る。もう既に起こってしまったことについても、こうなってほしいと願う。
希望を持つ。
祈りは言葉でできている。言葉というものは全てをつくる。言葉はまさしく神で、奇跡を起こす。過去に起こり、全て終わったことについて、僕達が祈り、願い、希望を持つことも、言葉を用いるゆえに可能になる。過去について祈るとき、言葉は物語になる。
人はいろいろな理由で物語を書く。いろいろなことがあって、いろいろなことを祈る。そして時に小説という形で祈る。この祈りこそが奇跡を起こし、過去について希望を煌めかせる。ひょっとしたら、その願いを実現させることだってできる。物語や小説の中でなら。」


これは、大昔に読んだ、好き好き大好き超愛してる。という小説の冒頭の引用。
twitter全盛期の当時、私の所属していたある界隈でみんなこの冒頭のことを話してたのを急に思い出した。ぼんやりじんわり好きだったのだけれど、改めて、涙が込み上げて来そうになるね。

私はこの頃、四六時中、祈っている。
私の好きな人にはいつも笑っていてほしい。
好きな人の笑顔が大好きなのだ。
だいすきな貴方のために何ができるか。
貴方が好きなことをして、笑って生きれるように考える時、貴方が私だけのものになればいいなんて、思ったことない。

だから、祈る。

まっすぐなきもちや心を信じる強さを取り戻せますように。
あなたが笑顔を取り戻せますように。
空まで突き抜けるほど笑えますように。
あなたの願いが叶いますように。
あなたが嘘をつかなくてもいい世界線で生きていけますように。
あなたの心が守られますように。

愛は決意。決断。そして祈り。
私はあなたを思って、今日も祈る。

祈っても祈っても、祈り尽きることなんかない。

全然違う本に話は変わるけれど、星の王子さまのキツネも似たようなことを言っていた。

キツネと王子さまはかけがえのない友人となったことで、キツネにとっては、なんの用もなかった金色の麦畑は王子さまの金色の髪を連想させるものとなる。
そうすると、キツネは金色に輝く小麦を見ただけで王子さまを思い出し、それは麦畑にとどまらず、麦畑をわたっていく風の音まで好きになるのだ。
そんなキツネとの出会いによって王子さまは、自分の星に残してきたバラの花が、自分にとってたった一輪の、唯一のバラの花であったことに気が付く。


私は貴方にとっての、たった一輪のバラにはなれなかったけれど、それでも私は貴方にとっての、金色の麦畑くらいになら、なれるだろうか。

考えても仕方ないことかもしれない。
だけど、”祈り、願い、希望を持つことも、言葉を用いるゆえに可能になる”のだ。

だから、私は書く。
言葉ではなんとでも言える、と言われようとも。
言葉の中でなら、その願いや祈りを実現させることができるのだから。

なんとだって言えばいい。
笑われたって、大きな声で言おう。

貴方にとっての金色の麦畑くらいならなれるだろうかと思う私は、本当は、
貴方にとってのたった一本のバラになりたかった、と。

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