見出し画像

【長編小説】 抑留者 10

 その四畳半のせんべい布団の上で、尚文は磨利を抱いた。これまでの人生のなかで、これほど奇妙な女との交わりはなかった。ハーおいやんののこした一升瓶から注がれた二杯の日本酒は、いまごろになって尚文の体の芯を熱くし、女への欲望を駆り立てた。目の前でするすると服を脱いでいく磨利の姿を見ているときは、「何でこんなことをしているのだろう」と目眩めまいがした。磨利に手を取られ、その柔肌の上にてのひらを乗せたときには、もはや何をしているのかもわからなくなった。自分が自分でないような、すっかり自己の乖離はくりした状態で、もう無我夢中だった。
 磨利は成熟した女のように、愛の営みに精通していて、その仕草はとうてい十八歳の娘とは思えなかった。「毎晩のようにされていた」と言った話は、本当だったのだなと信じられるほどだった。
 その、人生最高でありまた同じく最悪でもあるセックスを終えたとき、尚文は精根尽き果てていた。文字通り、〝果てた〟のである。
 せんべい布団の上に仰向けになり(この布団の上で、ハーおいやんは若い磨利の体を夜ごともてあそんだのだと想像した)、何だか抜け殻のようになってしまった気分の尚文のかたわらで、磨利が右肘で頭を支えて寝そべりながら、こちらを眺めていた。
「ごめんな」
 ぽつりと呟くように言う。まだ何を言うのかとわずかに身構えると、
「最後にこの家で、おとう以外の男に抱かれてみたかった」
 切なそうな声で、殊勝しゅしょう台詞せりふを吐く。まるで女の悲哀を唄った演歌だ。尚文は溜め息をついた。
「ほんに、お前には叶わんのう」
 先ほどの交わりのことを、しびれた頭でうっすらと思い出しながら尚文は言った。あまりにも甘美であったが、それだけに、とてつもない罪の裏返しのような気がされた。
 と、そのとき、いまの磨利の台詞のなかに、引っかかる言葉があることに気づいた。それはひと言目に磨利が言った、〝最後に〟という言葉だった。
「最後にって。そら、どういう意味か?」
 いぶかしみながら、磨利のほうに顔を向ける。すると、薄ら笑いを浮かべた磨利の青白い顔が目に入った。
「うちここを出ていくよ」
 再び、もう決定済みのことを言い渡すような、平坦な声色が放たれた。
「出ていくって……。ひとりでどこに行くんか」
 尚文は驚いて聞いた。今日の磨利はどうかしている。思いもよらないことしか言わない。
「お前、どうせ、それも〝せんみつ〟やろうが」と言いたかったが、声にならず飲み込んだ。それほどに、今日磨利から明かされたことはすべて真実性のすごみをたたえていた。この娘、本気だな。そう思った。
「おとうが死んじょった日、一緒に来た人。よそから来た人やろ」
 言葉尻に疑問符はつかず、決めつけたもの言いだった。あの日尚文と一緒に家に上がって警察の質問を受けた三ツ谷の姿を、磨利はしっかりと目に留めていたのだ。とても義務教育中の未成年とは思えない抜け目のなさに、尚文はたじろぎさえ覚えた。
「そうよ。……それが、どうしたんか?」
 限りなく嫌な予感を覚えながら、尚文は答える。磨利は、想像した通りの答えを返した。
「その人の連絡先を教えよ。その人のところに行く」
 眉間に皺を寄せて、磨利の顔を見る。さも当然、といった表情をして、こともなげに視線を返してきた。
「お前……。やめちょけ。そんなことをするな」
 青ざめながら、何とか阻止しようとするが、すでに磨利が尚文の言うことなど聞き入れるわけはないということはわかりきっていた。今日このとき、尚文は完全に罠にかかっておとしいれられ、この娘の支配下に置かれたのだ。その事実を尚文に自覚させるかのように、磨利はチッ、と舌打ちをすると、
「はよ、教えんか。その人の連絡先」
 歯がゆいように、苛々いらいらした声で言った。
 
 ――結局、尚文は磨利に、三ツ谷のラインのアドレスと電話番号を教えた。何とか教えまいと抵抗したが、今日あったことを近所の人々に言いふらすと脅され、ついに屈服せざるを得なくなった。磨利は嘘つきで有名だとはいえ、ことがレイプ事件ということになれば、尚文のほうが分が悪いことは明白だった。周囲は男である尚文に罪を着せてかかるだろう。
 いくら尚文でも、レイプ犯に仕立てられてはたまらない。言われのない罪で逮捕され、家族へも迷惑をかけることへの恐怖は際限がなかった。
「ふーん……。東京の人な。独り暮らしって? 顔もいいし爽やかやったし……。いいな、気に入ったわ」
 三ツ谷の基本情報を尚文から聞き出した磨利は、嬉しそうな笑顔を見せた。その隅々まで美しい顔立ちを見ながら、尚文は心底恐ろしくなった。そしてこの先三ツ谷の辿るであろう運命を思うと、気の毒でならなかった。磨利はおそらく三ツ谷にラインで繋がろうとし、三ツ谷は間違いなくそれに応じるだろう。磨利について尋ねられたら、いい娘だと良いイメージを与えるようなことだけを答えるように強要された。古い親友を裏切らねばならなくなってしまったことに、苦い薬を飲まされたあとのようなやるせなさを感じ、胸が痛くなった。
 この磨利という娘、本当は父親以上に悪魔なのではないか。
 ふと、そんな思いが脳裏をかすめた。そして、この女が浦じゅうで有名な〝せんみつ〟であることを思い出した。もしかして、今日のことはすべて、ハーおいやんが死んだことをきっかけに、尚文を利用してこの浦を出ていく足がかりを得るための磨利のでっち上げだったのではないか。ハーおいやんは警察が言った通り、本当に酔っ払ってよろめき、炬燵の角に頭をぶつけて死んだのだ。数年に渡って性的虐待を受けていたという話も、磨利の虚言なのではないか。
この女なら、そんなことも平気でやりかねない、と尚文は思った。
 しかし真実は確かめようがなかった。それに、こうなってしまった以上、尚文にとっては同じことだった。ハーおいやんが死んだのは事実で、今日尚文が磨利と寝たこともそれをネタに脅されたことも、変えようのない事実だ。それらについては、もうどうすることもできない。ただ、自分の保身のために三ツ谷を犠牲にしてしまったことだけは、胸のなかに鉛のように重たく残った。
 磨利は東京に出て、きっと三ツ谷のマンションに転がり込むだろう。浦での評判については一切知らず、先入観を持たない三ツ谷が磨利に会うなり夢中になるであろうことは火を見るより明らかだった。
 尚文には見えるようだった。磨利が、その美貌と色気を使って三ツ谷を骨抜きにし、すべて自分の思うままに操っていく様が……。そしてその悪魔的な性質をフルに使って、男をいじめ、苦しめ、のたうち回らせるのだろう。それはもしかすると、この先の三ツ谷の生涯に渡る拷問といったものになるかもしれない。
 尚文はおののきながら、言った。
「……お前、いつか浜で言いよったな……。人が人にどれだけひでえことが出来るか研究する、みたいなことを……」
「言うたなあ」
 楽しい思い出を思い出したかのように、磨利の顔はぱっと明るくなった。そしてそうすると、
「実は、研究はもう始めとるんよ」
 と言って、自分のスマートフォンを手に取り、ブラウザに保存された項目を表示させて尚文に見せた。
 そこには、世界じゅうの残虐行為に関する記事の見出しが並んでいた。ナチスによるユダヤ人のホロコーストに関するもの、スターリンによるソ連の恐怖政治を扱ったもの、そして毛沢東時代の中国共産党による文化大革命の詳細について解説した記事もあった。第二次世界大戦中の、関東軍七三一部隊によるおぞましい人体実験の詳細に関するものもあったし、中世の魔女狩りや拷問、フランス革命におけるギロチンや公開処刑など、それは人類が行ってきたありとあらゆる残虐行為の羅列だった。そして磨利がスクロールして見せる見出しのなかには、シベリア抑留に関するものも散見された。
「人間が、人間にどれだけひでえことができるものかっていう歴史。この手の記事は、検索すればいくらでも出てくる。面白くって、読むのがやめられん。人間って本質的に残酷なものよ。残酷な話であればあるほど、惹きつけられる。うちみたいにむさぼり読む人がおるけえ、こんな記事もどんどん書かれるんやねえ?」
 磨利は楽しそうに、尚文の反応を見ながら言った。そうしながらも、男をだます清純な少女のような笑みを浮かべる磨利を、尚文は心底恐ろしく感じた。尚文は困惑しながら言った。
「そういう記事を、面白がって読むな」
 前に祖父が言っていたこと、未来に悲惨な過ちを繰り返さないようにするためには、過去の出来事から目をそむけず、〝知る〟ことが大事なのだということを思い出していた。だが磨利の行為は記事を読み、過去の出来事を知ろうとはしているが、その動機と方向性は祖父の願いとは正反対を向いている。祖父の生涯をかけて出した結論と、自分がネットに上げている祖父の体験談とをまとめて冒涜ぼうとくされている気がした。
「お前、三ツ谷にいったい何をするつもりか」
 言うと、クスッと嬉しそうに目尻を上げて笑いながら、磨利は答えた。
「もちろん、手が後ろに回るようなことはせんよ。逮捕なんかされて、人生を無駄にしたくねえもん。……うちな、悲惨な経験ほど人と人とを強く結びつけるものはないって思うんよ。優しさとか思いやりとかでできた生ぬるいきずなって、すぐに溶けてなくなる気がする。うちは誰かと強く繋がりたい。例え死んで体がなくなっても、うちのことを記憶に留めてくれる人を作りたい。現に今日のことで、あんたこの先絶対うちのこと忘れんやろ。それもまた絆のうちよ。うちとおとうがそうやったように」
「本当は、お前がおとうにひでえことをしよったんやろうが」
 確信に満ちた声で、尚文は言った。磨利はふっと笑って答えた。
「最初はおとうがしよった。でも最近、立場が逆転した。おとうが年取ったけえな」
 お前の考えは間違っている、と尚文は言ったが、磨利はどこ吹く風だった。そしてそれどころか、尚文をにらみつけるようにして言った。
「うちはそんな風にしか人と繋がれんけえな。いままで誰もうちに優しくしてくれる人はおらんかった。ほかにどんなやり方があるんかうちにはわからん」
 ――いいなあ、三ツ谷さん。東京の人やし、しゅっとしちょるしなあ。あんな感じが良くて人が良さそうな人が、うちと付き合うたらどげえなるかなあ……。
 楽しみやわ……。そう呟く磨利の顔を横目で見ながら、尚文は、何かの加減で三ツ谷がわずかでも磨利に前向きな影響を与え、いつかその性根を変えてくれるようなことが起こりはしまいかと願った。けれどいま、この磨利の姿を目の前にして、そんなことはとても望みようはないと思えるのだった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?