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【長編小説】 抑留者 8

 朝食を終え、台所に食器を下げてから、三ツ谷と連れ立って表に出た。やはりタクシーで送り出すのは止め、バス停までの五分ほどの距離を、歩いて送っていくことにした。
 玄関を出るときに、三ツ谷は大声で台所であと片づけをしている時絵に声をかけた。どうもお邪魔しました。朝食の鮭と味噌汁、とっても美味しかったです! 時絵は慌てて飛び出てきて、拭き切れていない泡のついた手を胸の前で振って、いいえいいえ、またいつでも遊びに来て下さいと言った。
 どこまでも如才ない奴だ、と、尚文は苦笑いをした。けれど仕方がない、こういうたぐいの男は誰からも好かれ、どこまでも滑らかに世間を渡っていくのだ。自分にはとうてい辿り着くことのできない高みまで、上り詰めることだろうと思った。
 そんななかば晴れやかな気分で三ツ谷とともに県道に出た尚文は、異様な光景を目にした。
 道路の片端に、パトカーが三台、救急車が一台停まっている。パトカーの上の赤色回転灯は回りっぱなしで、捜査が進行中であることを示していた。
 何だろうか。尚文は車輌が停まっている位置を確認した。それは、隣のハーおいやんの家の前だった。まさか、磨利に何かあったのでは……。知らず知らず、隣の家に向かっていた。
 ソテツの木が左右に植えてある玄関までの小道に、二人の警察官が立っていた。玄関の引き戸は開かれていて、制服の人間が出入りし、ものものしい騒然とした雰囲気に包まれている。
 会釈をして、隣に住む者ですと名乗り、何があったのかと質問した。
「どうも、ここの家のご主人が亡くなったようでしてね」
 県警の制服を着込んだベテラン風の立派な体格をした警察官が言った。
「殺人や強盗の可能性を含め、捜査しているところです。もうじき鑑識が到着します」
「殺人? 強盗?」
 尚文は気色けしきばんだ。ハーおいやんが亡くなったという。磨利は無事だったのだろうか。背中に一筋冷たいものが走って、頭の中が白くなった。
「ここは、娘がひとりおったと思うんですけど」
 瞬時に地元の言葉に戻っていた。後ろからついてきて、いま追いついた三ツ谷にもはっきりと聞こえたことだろう。
「娘さんね。家のなかにいますよ」
 警察は言った。
 磨利は、奥の部屋で警察に質問を受けているところだった。気丈な娘さんで、と警察官のひとりが言ったとおり、背筋を真っ直ぐに立てて、少し気が立っているようではあったがいつもどおり平然とした口調で警察の質問に次々と答えていた。最初に通報したのも磨利だったということだった。
 行きがかり上、尚文と三ツ谷も軽く警察の質問を受けることになった。いずれにしても、隣家であるゆえ、明日にでも家を訪問して前日、前夜に怪しい人物や物音を見聞きしなかったか聞きにうかがう予定でしたと言われ、二人は磨利のいる部屋とは別の部屋に招き入れられ、質問を受けた。
 県外から来ている三ツ谷が容疑を掛けられる危険性もあったが、夕べからずっと尚文が一緒にいたことが、充分なアリバイになった。
 磨利の話では、ハーおいやんは昨日夕方の早い時間から夜遅くまでひとりで酒を飲んでいたという。年金生活者であるハーおいやんにとって、そういうことはしょっちゅうだった。気に入っている銘柄の日本酒があって、一升瓶で買ってきては、一晩で一本か二本飲んでしまうこともざらにあった。
 飲み過ぎるなと言ってもまず聞かないので、磨利は呆れ果てて、最近では放ったらかしにしてひとりで先に寝るようになっていたのだという。
 だから、朝起きて居間に父の体が横たわっているのを見たときは、驚くより先に呆れたという。初めは、酔いつぶれて寝ているだけだろうと思ってうんざりしながら起こそうと体を揺さぶった。すると、父の体は冷たく硬直していて、呼びかける声に返事もしない。
「父ちゃん!」
 大きな声で叫びながら何度も呼んだけれど、父は目も開けなければ声を発することもなかった。慌てて119番通報し、救急車を呼んだ。
 到着した救急隊員は、父の体を調べて、数時間前にすでに息絶えていたことを確認した。
 そして警察が呼ばれ、いまのような状況になっているのだという。
 尚文と三ツ谷は唖然としていた。思いもよらない出来事の出来しゅったいに言葉もなく、ただ警察のする事務的な質問に真面目に答えた。
「これは、事件ということになるのですか?」
 好奇心から発せられるとおぼしき質問を、三ツ谷が警察に投げた。口の重い尚文にはできないことを、積極性のある三ツ谷は難なくやってのける。それは尚文もまた興味をき立てられ始めていたモヤモヤした疑問に、切り口を開いてくれた。
「まだ何とも言えません」
 警察官は答えた。
「とりあえず鑑識の結果を見て、死因の特定をします。アルコールの過剰摂取によるものか、何らかの外傷が認められないかなど、詳しく検証します。いまのところ金品を盗まれたという痕跡もない以上、急性アルコール中毒による頓死とんしという線が濃厚ですが……」
「お酒を、かなり飲む人でしたからねえ」
 尚文は眉間に皺を寄せて言った。
「そうですね。事件性は、薄いかもしれないですが」
 警察は言った。
 バス停まで歩くあいだ、尚文も三ツ谷も黙っていた。いよいよ別れという段になって、思いもかけない出来事に遭遇してしまったため、お互い何を話題にしていいかわからなくなっていた。
「娘さん、独り遺されて気の毒だね」
 バスの時刻表を調べながら、三ツ谷がぽつりと呟いた。尚文としてみれば、あの家の特殊性を多少なりとも知っているだけに、ただ単純に遺された磨利を不憫ふびんに思うというわけにはいかなかった。父親の突然の死にショックは受けただろうものの、多分磨利は、トラブルばかり起こす酔いどれの親父が死んでくれて、むしろほっとしているのではないか。そんな風に思った。
 バスが来るまでまだ十分ほどあった。屋根付きのベンチに腰掛けた二人は、いま行き合った事件に影響されてか、妙に神妙な気持ちになって、言葉少なにさまざまなことを語り合った。そのなかには、三ツ谷が昨夜尚文に対して取った態度、いかに酔っていたとはいえ、友人を尊重するならば決して言うべきでなかったといまは三ツ谷本人も認める、独楽子の話題についての反省も含まれていた。
「もういいよ、あんまり気にするな」
 尚文は、再び心から謝罪の言葉を口にした三ツ谷に、優しい気持ちになって言った。
「そのうち、暇ができたら一回東京に行くよ」

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