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福祉と援助の備忘録(4)『疾患の人権格差社会』


福祉と援助の備忘録であるが、司法の話を絡める。


あるマラソン選手が万引きを繰り返しているのが報道されたのをきっかけに、クレプトマニアという言葉がテレビでも聞かれるようになった。「窃盗癖」という意味であり、病名である。クレプトマニアの診断があるために執行猶予、盗みを繰り返してもダブル執行猶予、トリプル執行猶予が認められる判例が散見されている。


刑事裁判においては、

1. 心神喪失者の行為は、罰しない。
2. 心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。
                          (刑法第39条)

と定められていることは、おおまかには広く知られているであろう。一般の人にはなかなかに受け入れられない、評判の悪い条文である。

だが、単に精神疾患にかかっているということだけで「心神喪失」ということになるわけではない。心神喪失であるためには、「弁識能力」または「制御能力」が失われなければならない。あえてSFで説明しよう。


弁別能力とは、ものの善悪が判ることだ。サラ・コナーが「人類を滅ぼそうとするターミネーターを破壊した」と、妄想の下に屈強な男を殺害しても、当人はそれが罪だと思っていない(むしろ人類を守ったと思っている)。こういう場合、同じ人が死ぬにしても、快楽や私利私欲による殺人といった悪意ある行為とは差をつけるべきだという考えに基づき、罪が軽減される。


制御能力とは自分をコントロールする能力である。データ少佐が異星人に体の動きを操られ、副官を殺害させられそうになったことがある。少佐には殺害の意志はまったくない(むしろ必死で止めたい)。自分の肉体が殺害に使われたら後味は悪いかもしれないが、勝手に体が動くことに対して責任を取らせるのは酷であろう。むしろ被害者である。罪には問われない。


責任能力の有無を問うためには、精神科医師による「精神鑑定」というものが行われる必要がある。最終的には裁判官が決めるが、「心神喪失」は滅多に認められない。


実はクレプトマニアでは、基本的に責任能力は失われない。もし心神耗弱が認められるとしたら、それは少しおかしい。なぜならば「悪いと判っていて盗む」のがクレプトマニアだからだ。当然罪悪感にも苦しむ。弁別能力がないのであれば、それはクレプトマニアではない。


だからクレプトマニアの罪が軽減される場合、基本的に責任能力なしと判定されるからではない。責任能力を問うための精神鑑定は必要ない。ただ鑑定には情状鑑定というものもある。犯行に至ったときの心性をつまびらかにし、情状酌量の余地があるかどうかの参考にしてもらうための鑑定である。

鑑定までせず、クレプトマニアに詳しい精神科医に診断と意見を求めるくらいで裁判は進む。その上で、検察と弁護士の間で、クレプトマニアであるか否かが争われる。このような精神疾患をめぐる裁判の過程に、私としては「腑に落ちない」ものを感じることがある。


それについて説明する前に、窃盗癖の診断基準の一部を載せておこう。

「この障害は物を盗むという衝動に抵抗するのに何度も失敗することで特徴づけられるが、それらの物は個人的な用途や金儲けのために必要とされない
                            (ICD-10)

裁判ではアメリカの診断基準であるDSM5が使われることが多いが、ここではWHOの診断基準を掲載してみた。検察と弁護士がとくに争うのは、太字部分である。クレプトマニアでは、平たく言うと純粋に盗み自体が目的となり、役立つものや欲しいものを手に入れたり、貧困に窮してとかお金がほしいからといった理由で盗みに及んだりはしないということになっている。

だが実際には、使いもしないものを盗むということは稀である。摂食障害の患者が食べ物を盗むようになり、これがクレプトマニアの合併だと診断されることも多い。検察は、被告は利益のために盗んだと主張し、弁護人は利益のために見えても臨床的には診断を満たしているのだ、と主張する。

操作的診断基準という、項目を満たせば自動的に病名が決まる診断基準が使われているので、法曹界の人々にはしばしば、だれでもそれを判定できるとでも思っているかのような発言をする人がいる。なんと裁判官がそのような判断をしていた例もある。腑に落ちない一点目はここである。症状が項目を満たしているかどうかを決めて良いのは精神科医だけである。


もうひとつ指摘しておきたい見過ごせないことは、「病気=罪ではない」とでも信じられているかのように思われることである。「病気だから仕方ない」「病気ではなく甘えである」式の考えかたは恣意的に利用される。たとえばDVは「病気」とは呼んではいけないことになっている。「病気」とすると、言い訳になるとでも思われているからであろう。

とりあえずDVの話はおいておこう。クレプトマニアは精神疾患ではある。診断基準にも載っている。ただ、そもそも病気だから責任だの罪だのは軽くなるのだろうか?

風邪を引いたから仕事を休む。日頃の体調管理が悪いせいだうんたらはおいておいて、今体調が悪いのであれば休むということについては許されやすくなる。あるいは大ケガをした、なんて場合も、職場には出ようがない。風邪なら


「熱を計ったら40度もありまして・・・」


と、病状の重さを伝えたりするのではないだろうか。ここにはシックロール、社会が受け入れている「患者の役割」というものがある。人は「患者」になると、仕事を免除され、治療をするという役割を自動的に与えられるのだ。これが


「今日はかったるいんで休みます」


だと許されない。差がつくのである。


ここまでは理解されるであろう。


精神疾患ではこれがややこしいことになる。精神科とは「困った行動」を治す科である。精神疾患とは、困った行動を起こさせるなにかである。だから犯罪も精神疾患によって起こされうる。罪を犯して法的に責任が問えるとしても、それが精神疾患であることと両立してなんら問題はないのである。悪意ある犯罪を続けている人にも、反社会性パーソナリティの診断はつく。


「クレプトマニアは病気である。その罪は問えないのではないか?」という問いは、「犯罪は病気である。その罪は問えないのではないか?」と問うているのと変わらない。そうなると、そもそも問いは「犯罪は罰して良いか?」というもっと大きなところから考えることが必要だ。

「弱い立場の人を守ろう」が福祉である。そこに「犯罪は病気である」が加わる。すると福祉は「犯罪者を守ろう」という結論になる。ここを真剣に考えるのが大事だが、クレプトマニアを護ろうとする人は、この文脈から少し逃れようとしているように思える。「クレプトマニアは他の犯罪者とは違う」というニュアンスが見え隠れするのである。

それでも、弁護士が奔走して執行猶予を勝ち取れる対象としてクレプトマニアに焦点が当てられているという現状は、犯罪者への福祉のとりあえずの一歩になるという見方もできる。


ではどうしてクレプトマニアの弁護に奔走する弁護士ばかりが目立つのであろう?



クレプトマニアは、「習慣および衝動の障害」である。だから「放火癖」の仲間である。物質への嗜癖も同様に考えるならば、覚せい剤依存も仲間である。

話は明快である。物が売っており、盗むことによって物が手に入る。その直前に緊張と、直後に満足があるということにはなっているが、心の中は考えなくていいだろう。盗む、すると手に入る。だからまた盗むようになる、ということだ。「盗む」の部分を「覚せい剤を打つ」に変えれば覚せい剤依存と同じ構造であることが判る。ほぼ、それ以上のものではないとも言える。


クレプトマニアの本質は「繰り返すうちに盗みがやめられなくなった」だ。その罪を軽くするということは、「繰り返すうちに盗みがやめられなくなったのだから、許してあげよう」と言っているのと同じだ。じゃあ「繰り返すうちに覚せい剤をやめられなくなった人」についてはどうすればいいのだ?

個人的な見解を言えば、覚せい剤も許してあげよう、である。それが甘すぎるという場合、クレプトマニアはどうなるだろう?覚せい剤が責められて盗みが責められない理由はない。もっと言うと、家族が迷惑するとか、覚せい剤の使用下で他人に迷惑をかけるとかいったことがない限り、覚せい剤使用は盗みより他人に迷惑をかけない。


たとえばそんな差別に、腑に落ちないものを感じるのである。


この差がどこから来るか?いくつか思い当たる。その1つに、覚せい剤依存の患者と比べてクレプトマニアの学歴が圧倒的に高く、またお金持ちの親が多いという背景がある。弱き者に手を差し伸べるのは良いことだろうが、クレプトマニアで執行猶予を勝ち取っているのは私選弁護人をつけた人ばかりだ。国選弁護人をつけた者の大半が刑務所に行っている。


こうした現状に触れずに「クレプトマニアに責任はあるか?」といった論議がされているのを見ても、どうしてもシラけてしまうのである。


Ver 1.2 2021/6/7 公開してからすぐに推敲した。


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前回はこちら。



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