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表現とは、「正解」の数を増やすことである

りんごが「りんご」である確証はどこにもない。赤くてまあるくて、皮を剥けばみずみずしい黄色をしているそれは、わたしにとっては確かにりんごだけれど、他者から見たら全く違う果実なのかもしれない。わたしが見ているりんごの姿は、所存わたしひとりの目を通して映し出されているものであって、全人類が同じようにその姿を目にしているかどうか、何年生きても自信がない。

そもそも、自分では「赤い」と認識している物体が、他者の目を通してもなお同じように赤く見えているか、それさえも永遠に謎だ。わたしが思う丸は、もしかして三角なのかもしれない。黄色は、黒だったりするんだろうか。わたしが勝手に物体を己の概念にはめ込んで見ているだけで、今見ているもののすべてが、この世界の常識から外れていることさえあり得るのだ。

自分が見ている世界が、正しいと思えたことは一度もない。見ているものや聞いたもの、触ったものの記憶は確かに身体に残るのに、そのすべてが他者と共有できない違うもので、目の前にあるのものが幻かもしれないということに気づいたときから、わたしはずっと孤独だ。
自分が見ているものが他者と同じであるか、その問いの答えは死ぬまで一生わからない。死んだところでそれが明らかになるかさえもわからないのだから、きっとこんな戯言、考えるだけ無駄なのだ。

人は言葉を使ってコミュニケーションをするけれど、その言葉でさえも怖くて仕方がない。
わたしが使う「かわいい」と、他者が使う「かわいい」はまったく違う。その温度も、その語感も、何もかもが違う。認識のズレを少しでもずらし、正しい言葉で仲良く話すためにつくられた広辞苑や辞書なんて、人間らしい会話をする上で実はなんの役にも立ってくれない。AI同士がその定義にのっとって、淡々となぞるように会話をすれば、ある程度の作業は進むであろう。わたしたち人間が、「わかり合う」なんて大それたことを言葉を使ってしようとしたところで、期待はずれで傷つくだけだ。勝手に期待をしてしまうのは、人間の性なんだろうか。

人間には感性がある。自分ではないまったくの他人が相手だとしても、生活をするにあたっては何かしらの意思疎通をしなければならないし、人との関わりなしで生きることなど、まず不可能だ。どの瞬間にも、どこかで生きている誰かの人生が絡んでいるもので、どんなに引きこもっても、本当の意味で外界とシャットアウトするなんて無理な話だ。

己と他者の間にある言語や感性のズレ、そして今見ているものへの自信のなさを認知しながらも、私たちは常に「自分の」言葉で会話をする。嬉しさや悲しさ、怒りや憎しみ。自分の中に存在するあらゆる顔を総動員して、相手へ何かを伝えようとする。

好きな人の話をひとつしても、相手に相手のあれこれをうまく伝えられない。わたしの好きな人はこんなに素敵で、こんなにかっこよくて、こんなに人間らしくてね。知っている言葉全てを使ったって、自分の思いを相手に丸ごと届けるなんて無理だ。伝えきれないもどかさに、歯がゆくて仕方がない。
昨日見た映画の魅力を語るにしても、この感動が相手の感動になるかもわからない。主人公の髪の毛は確かにブロンドだったけれど、ブロンドに見えていたのはわたしだけだったのかと疑ってしまい、はたして何を伝えたかったのか、どう伝えるべきなのか、もうなにもかもがわからなくなる。

自分の世界は、他者の世界ではない。
自分の使う言葉が、相手の使う言葉であった試しさえない。
そんな世界なのに、なぜかこんなに愛おしい。わたしは、きっとバカなのだ。違いこそが人間らしさなのだろうと、愚かながらも微々たる興奮と悔しさと噛み締めながらそんなことを思ってしまう。

あらゆる作品がこの世に存在するのは、それらすべてがこの世界になくてはならないものだからだ。
文学も、絵画も、音楽も、建築も。ときには時間や空間も、そして人も。
感性で作られるそれらは、この世の中をさまよう誰かの光となるのだろう。

わたしは、表現とはこの世の中に正解を増やすことだと思っている。

政治が定めた冷たいルールに則り、何もかもが制限されたとしたら。表現ができなくなったとしたら。例えば全ての娯楽がなくなったとしたら。人間は、あっという間に感性が死ぬのだろう。今すぐにツイッターもSNSも、本も音楽もなくなったとしたら、世界から色がなくなりモノクロになる。感じる温度がなくなり、そう。もちろん愛なんてものもなくなる。
なんてつまらなくて、悲しい世界なのだろうか。考えるだけで恐怖で震えそうだ。

漫画やアニメは、エンターテイメントしての要素はもちろん、人として生きるヒントが詰まった大切な媒体だ。家族の愛に疑問を持つ子供が、漫画の世界で愛を知るように、いじめられて学校に行きたくない子供が、アニメで正解を知るように。誰かのための、人間のための教科書にだってなるのだ。

失恋した少女の散らかった感情は、咽び泣くように歌うとある女性の歌によって言語化されるのかもしれない。ドロドロした感情と、フツフツと湧き上がる醜さも、歌を聴くことで浄化されて、彼女にとって忌まわい存在でしかなかったそれは、正しい過去となる。

力強いタッチで描かれたその絵を見て、自然と涙が出てきたら。それは、心の奥底で認めてあげられず体育座りをしていたままだった自分が、その絵によって救われたからだ。間違いだらけの人生を歩んできたとしても、荒波の中で生きる誰かの世界を見たら、未来に絶望することもなくなるのかもしれない。

わたしを救ったあの本も、わたしを泣かせたあの歌も。わたしにはなくてはならないものだった。暗くて無機質なその過去が、まるで正しいものかのように、間違っていないもののように思えた。
生きていく上で、全ては自分次第だとわかってはいるけれど、それを図るためのものさしをつくるまで、ひどく時間がかかるのだ。社会で教えられる常識に丸め込まれて、自分の感じるものが、なりたい姿やちょっとした心のざわつきも間違っているとさえ思ってしまう。
感性なんて、潰されて当然のものとして扱われてきたのだろう。
同じ時間に起きて、同じ場所に登校して、同じものを食べて、同じ教科書を使うように強要されてきたというのに、いまさら自分らしい答えを探せなんて、大人ってだいぶ無責任で呆れてしまう。

それぞれが持つ正しさを殺してきたのは、どこのだれなんだろうか。だれなんだよ。
それでも殺されず、自分の生き方を探し、なにか爪痕を残そうと必死なわたしたちは、お互いに尊い存在なんだろう。誰かが作るものは、誰かの生きた証だ。そう思えば、批判も中傷も、自然と消えるはず。
なにかを見たとき、その受け止めかたは人それぞれでいい。誰にだってこれまでもこれからも人生があるのだから、その時間をすり減らす必要もなければ、無理に抱きしめる義務もない。感じ方に統一なんていらない。
正解が欲しくて、正解を与えたくて、表現してその命を熱く燃やせる生き物は、この世でたったひとつ。

人間だけなのだ。

少数派の意見が未だに潰される、発展しているようでどこか停滞している今の日本に。自由に表現できる場所というのは、ずっと求められてきたものなのではないだろうか。書きたくて、歌いたくて、撮りたくて、読みたくて。まだ出会えずにいた、探していたその答えが、だれかの作品で見つかることがあるのかもしれない。顔も見えずどこで生きてきたかもわからない誰かに、ある日救われることだってあるのだ。

りんごがりんごである答えを探すために、人が生きる意味を見つけるために。
他者のことを知りたくて、少しでもその心に触れたくて、己の全てを使って自分をさらけだすために。
表現があるのだろう。
生きる上で感じるもどかしさ、差別、侮辱。あらゆるものを形にして、その人なりの正解にする。誰かに届け出ることで、誰かの正解となる。そうやって、世界にカラフルな正解がたくさん生まれていけば、人はそれだけで生きられる気がするのだ。

わたしが書くのも、こうやって長々と語るのも、自分が感じたものが、誰かの正解になればいいと思うからだ。批判され、間違ったものだと扱われても、さまよい苦しむ誰かの正解になればそれでいい。傷つけるような言葉を言わぬよう、最低限のマナーは守り、あとは己の全てで書き殴るだけだ。

この世には、正解しかない。正解を増やすのが、表現の宿命だとさえ思う。
あなたの暗い過去も、人に言えない汚れた恋愛も、崩れかけた会社員の心情も、今にも人の命を奪いそうな尖った憎しみも。

表現の力で、正しさに。表現で、カラフルに。
自分の心を見つめ、誰かの声となり、形にする。それがわたしたち、作り手の使命だと思うのです。

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