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そんなにメンヘラだと思われたくないですか?

実際問題、そんなにほいほい気軽に使うような言葉ではないはずなのに、やたら聞くようになってしまったこのワード。「メンヘラ」。本来は精神衛生、心のケアについての言葉であったはずなのに、いつのまにか誰かを揶揄する時に使うようになった。誰かが思いっきり落ち込んだ時、弱さを露呈した時、この言葉は相手を傷つける武器となる。

例えばの話。今やなにかと便利、わたしも大好き、ツイッターでのこと。
わたしのタイムラインに長文で心情を綴る方がいる。今日あった嫌なこと、本当はこうしたかった、ああしたい、あの人に会いたい、でもわたしはブスだし結局(略)
仕事柄、トレンドをチェックするためにツイッターは逐一チェックしなければならないのだけれど、この方のつぶやきが流れてくるとついつい読んでしまう。ついつい。読んだところで、私にとってはきっと関係のないことなので、そこで一旦忘れるのだけれど。

だけど、この人の嫌われ具合がすごい。
わたしの周りは、その人の話題が少しでもでるとめちゃくちゃブスになる。なぜかって、悪口言う顔になるからだ。「人が見てる場でよくもあんなにメンヘラツイートができるよな」「見ててうける」「辛いアピールうざい」。みなさんから誹謗中傷がすごいのなんのって、そしてその時の顔が揃いも揃ってすこぶるブスであることこの上ない。その場では言わないけれど、やっぱり誰かを悪く言ってる時の顔なんて見れたもんじゃないですよね。その顔つき、癖になるからやめたほうがいいよなんて、思っても言ってあげないんですけどね。

でも、おもうんですよ。

え、よくない?

誰が何を呟こうが、よくないですか。関係なくないですか。気にする要素ありますか。ツイッターが決めたんでしょうか、「悲しみを露わにしてはいけない」と。そんなルール、聞いたことありません。
なんかもう、いまを生きる人たちって、誰かがSNSでつぶやいたことに対して過剰に反応しすぎな気がする。あれはなんなんでしょう。今の若者はすごく他人の発言に敏感。自分に関係ないことだと割り切れてない。

確かに、この人のツイートは言わなくていいことなのかもしれない。そして、ツイッターに関係なく、現実の世界でも負の感情は周りに共有することではないのかもしれはい。悲しい、辛い、死にたい、もう嫌だ。そういうネガテイブな発言を見て元気になる人はなかなかいないし、マイナスはマイナスをよせつける。楽しい気分には到底なれない。

でも、別にいいんじゃないでしょうか。
その人にとって、悲しみや辛さのはけ口がたまたまツイッターだったと言うだけ。手軽に顔の見えない不特定多数の人に発信したいだけ。誰か1人にでも読んでもらいたくて、書いている、ただそれだけ。それがその人の悲しみの紛らわせ方。それでその人の心がもしかしたら軽くなってるのかもしれない。あなたがしないのならば、別にそれはそのままでいいと思う。だけどばかにする権利もどこにもない。嫌なら見なければいい。SNSとはそう言うものです。だって大抵無料でしょう?お金払ってないんだから、そりゃいろんな人が利用するよ。嫌ならvip専用のアプリかなんかをやればええんどすえ。

自分ではない誰かが、俗にいう「メンヘラ」になった途端、誹謗中傷する人たちがいる。ここぞとばかりにメンヘラをバカにする。
でもそれは、そのひとが普段脆さを人前に出せていない嫉妬からくるのではないだろうか。誰かをメンヘラだと揶揄する人に限って、弱かったりする。ほんとはみんなに認められたい、好かれたい、頑張ってることを知ってほしい。心のどこかでそう思ってはいるけれど、メンヘラだと思われたくないがためにかっこつけて我慢している。それが結果的に、弱さを出す人への牙となる。自分はそんなことしないのに、こいつはださい、我慢できてない。マナーがなってない。そんな風に思っていませんか?
人に迷惑をかけたりしていたのなら話はちょっと変わってくるかもだけれど、SNSなんて所詮承認欲求の塊だと思う。わたしにとっては、「今日も楽しかった😃毎日に感謝💓」という投稿も、「しんどい。つらいけどがんばろ、、」という投稿も、大差ない。他人の呟きである。

メンヘラってなんだろう。弱さってなんだろう。
自分に理解できない誰かの弱さを「メンヘラ」とまとめてしまっていいのだろうか。
これは完全に私の感覚だけれど、誰かをメンヘラだと揶揄する人って、相手の感情の根元がわからないからなのではないのか。泣いてる理由も苦しんでる理由もわからないから、「自分だったらそんなに人に弱みを見せない」「自分だったらそんなことで泣いたりしない」、そういう風に無意識に他人を自分の天秤にのせてるだけではないだろうか。わからないものは嫌だし、排除したくなる。

だけど、悲しみの度合いなんて人それぞれだし、自分の物差しではかるものではない。そのひとの悲しみの許容範囲は、そのひとにしか守れない。
いじめていた人はいじめられていた人の気持ちはわからない。いじめられている人の我慢を知らない。耐えを知らない。いじめられていた人が死にたいくらい闇に落ちても、その闇はわからない。
わからないから、ばかにするしかない。結局、自分の経験で得た感情でしか人は共感できないのだ。嬉しいも、悲しいも、自分が見たもの聞いたものできまる。 わからないって、怖いことだと思う。

弱さを隠して押し退けて、いつしか自分の本当の気持ちまで見えなくなって。やっと気付いた後に見えるのは、赤の他人の自分への評価だけ。それは自分のこれからの人生に一ミリも関係ない、まったくどうでもいい他人。強いね、かっこいいね、弱さなんて見せないんだね。そうやって繕った自分を評価してくれる人々の母数は増えるのに、自分が本当にそばにいたいと思う大切な人のかずはゼロ。下が重すぎて、上がわからない。
強がってかっこつけて、多くの人に好かれようとしたら誰も周りにいなかった。メンヘラと思われたくないがために、 変に強がってしまっていた過去の私に向けて書いている部分もあるのだけれど、それはとても苦しいことだと思う。嫌われてもいいから、自分にとっていちばんの方法でストレスを発散していけばいい。本当に大切な人は、あなたのことをメンヘラとさえきっと思わない。弱さをわかってくれるはず。
というのはちょっとハードルが高いかもだけれど。あなたの良さを知ってる人は、あなたの弱さもわかってくれるんじゃないでしょうか。それが「大丈夫?」という気遣いか、あるいはちょっと遠くで見守ってくれるとか、方法は人それぞれだとは思うけれど。友達でも彼氏でも家族でも、一緒だと思う。

ていうか、ツイッターでちらっと愚痴っただけでメンヘラって言われるならば、わたしたちライターは怪物かなんかになるのでしょうか。処刑されちゃうよ、勘弁。
でも、例えわたしの記事を読んで「こいつやべえメンヘラ」ってばかにされたとしても、わたしは何も思わない。むしろアンチが増えたぜフッフーくらいにしか思えない。同じくらいの文章を書いて、プロとして仕事をしている人、またはわたしが個人的に好きな人に言われたらきっと反省はする。だけど、同じことをできない、好きでもない人に言われても何も思わない。意図的に傷つけようとしてくる人に、心が動くことはとても無駄である。感想とかアドバイスとかは本当に嬉しいけれど。わたしのこのノートが全員に理解されるとは思っていないです。だからもっと中傷してくれて構わないです。とかって、また話が逸れました。

メンヘラと思われたっていいじゃないですか。
あなたをメンヘラだと思う人は、あなたの悲しみを理解できない人ってことです。
「お前メンヘラだな」って揶揄されたら、「こいつは違う」、それだけ思ってあとはもう忘れていいと思います。そもそもメンヘラって悪いことですか?人はみんな、例外なくちょっと弱いと思う。見せるか見せないか、それはひとの自由だけれど。

みんなちょっとずつどこかおかしくて、でもみんな結局普通だ。
好きな人の言うことだけ信じて、友達と家族と恋人とほどよい信頼関係を築いて、自分のことを信じて、適度に弱さを見せる。メンヘラって言われても、自分の好きな人がメンヘラじゃないって言うなら、もうメンヘラじゃないと思うのです。
好きなことだけ信じて生きていきたい。

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