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大人でも子供でもないから、いっそ叫んでみようと思って

歳を重ねるほどに思う。なんてことない時に、ふと思う。生きるって、めんどくさい。人生って、めんどくさい。ああ本当に、なんてめんどくさいんだ。生まれてから死ぬまでがゴールだと決まっているのに、毎日なにかしらの試練があって、笑ってしまうほど嫌になる。クエストが多い割に、自分のレベルがわからない。いまどこにいて、次は何を乗り越えて、あとどれくらいで死ぬのか。人にレベルなんてないから、見えなくて正解なんだろう。先がわからない暗闇を生きていく。そういうものなのだ。

朝。目が覚めて一番に思うこと。「今日も一日が始まった……。というか、始まってしまいました、はいスタートです」。わたしとは真逆の考え方をしている人にとっては、生きていることに感謝しろだとか、一日が始まることを楽しめ!とか、そういうことを思うのかもしれないけれど。わたしみたいな人種もいるんだという感じで、排泄みたいに流して楽しんでほしい。
梅雨に入ったからか、最近は低気圧で体調がジェットコースターみたいに変動する。今日はすこし頭が痛かった。冷えピタが手放せない。ストレスのせいなのか誰かの呪いなのか、はたまた自分の行いが返ってきているのか、原因はわからないけれど、嫌な夢を見て胸糞が悪かったはずなのに、目が覚めて部屋を歩き回っているといつの間にか内容を忘れている。

夢ってやつは、残酷だ。休みたいときに悪さをしてくるアイツ。何かわたしに伝えたいなら、もう少しわかりやすい形で表れてくれたらいいのに。抽象的なくせに汗だくになるほどの何かをぶつけてくる夢。たまに悪夢。ほとんど悪夢。

言葉のニュアンスが違うけれど、もうひとつの意味の「夢」。描いている「夢」はなかなか叶わないんだったら、描かなくとも再生されるであろう夢くらい、寝ている時くらいは幸せを見せて欲しい。あまりにも変な夢を見た日、苦しすぎて思いつきで夢占いというものをしてみたら、「あなたの潜在意識からの訴えです。ストレスをなくしましょう」なんて書かれていて、モヤモヤしただけだった。見えないもののせいにすれば、納得ができるのだろうか。

根拠がない何かにすがることも、他人にぶらさがるように縋ることも、目に見えない愛情を求めることも。全部、人に「感情」があるからだ。わたしたちはなんてめんどくさいんだ。めんどくさい。感情なんてものがあるから、苦しい。感情なんてものが動くから、悲しい。感情なんてものが高まるから、嬉しい。地球上でいちばん厄介な生物として生まれてしまった。厄介で、楽しい。人間様。

saku。さく。サク。わたしは今、初めて仕事を長期的に休んでいる。社会人6年目。来年の3月で28歳。アラサー。

先月末、初めて救急車で運ばれた。原因は、メニエール病。ストレスが原因でなる、耳の病気だった。数年前に一度かかったことがあって、そこから気圧の影響や疲れなどで耳鳴りや詰まりなどがあったことはあるけれど、救急搬送されたのは初めてだった。お仕事でパソコンを見ていた時、ぐらっと急に頭がふらついて、ちょっと疲れているのかなと思って横になったのがオワリ。数時間後、わたしは死ぬかと思うほどのめまいと吐き気で死にかけた。寝返りをうつと視界がゆがむ。トイレにいきたくてもきもちわるくて行けない。お水ものめない。どうしよう。ひとり暮らしの部屋で天井を見ながら、ああ、これこのまま死ぬんだなって思った。泣けもせず怒りもせず、諦めた。このままもし死んだら、仕事しなくて済む。くだらないSNSの誹謗中傷で悩むこともなくなる、何食べようとか考えなくて済む、好きなことに追いつけなくて悲しまなくても済む。いろんなことを考えていたら唇がカサカサになって、あ、死ぬ。と思った。

諦めかけて目を閉じたら、心の奥底で声がした。「は?」って、声がした。なんだか怒っている自分の声だった。ゆっくり目を開けたら。だんだんむかついてきた。頭に湧き上がってきた一番の気持ちは「怒り」だった。なぜ、今?なぜ、今なのか。このタイミングでこの状況でひとりで死ななきゃいけないのか。それでいいの?トマトをつぶすように心が縮んでいって、中から出てくるのは熟しきれていないすっぱい液体。今死んだらアンチの思うつぼ、くそほど嫌がらせしてきたあいつらに。……あいつら?誰?違う、そんなの関係ない、わたしってどうしたいの。……わたしは。醜い感情が湧き上がってきて、止まらなかった。これって復讐心だから、人のためじゃない。あんなに明日が来ることに嫌気がさしていたのに、明日が来ないかもと思った時に思い浮かんだのが「怒り」だなんて、我ながらなんて卑屈なんだろうと思う。

過去の自分が今の自分を殴ってきた。そしたら急に手が動いた。
わたしは、生きるために救急車を呼んでいた。

隠すわけではない。
ただ言う機会もなかったからここで正式にご報告するけれど。

実はちょっと前に、コロナってやつにかかった。なんだか寒気と喉が痛いなって思って、怖くて自分で抗原検査を受けた。結果は陰性だったからとりあえず安心したけれど、その数日後に38.5度の熱がでた。朝起きたら耳が何も聞こえなくて世界がぼやーっとして、これはやばいと思ってお医者さんに行った。結果は案の定陽性で、わたしは流行りのコロナに遂にかかった。

メニエールになって死にかけたのが、自宅療養期間の最終日だったから、どこも病院が受け付けてくれなかった。隊員の方が何件も病院を探してくれたけれどだめで、その日は諦めた。吐きながらトイレに行き、家の鍵を閉めてまた吐いて、次の日良くなることだけを願って寝たけど、まったくよくならなかった。自宅隔離が終わった早朝、これ以上は本当にひとりではなんともならないと思って救急車をまた呼んだ。今度はスムーズに病院に運ばれた。

なにも背負っていなかったら。ただ淡々と生きていたら。
怒りがわたしを殴っていなかったら。

わたしは救急車を呼ばずに、死を選んでいたかもしれない。

あまりにも体調が悪すぎるということで、2週間弱のお休みをいただいて完全にお仕事を休んでいる。今はその折り返し地点な感じ。仕事柄どうしても長期休暇をいただくことは難しくて、基本的には個人プレーの職種だから、休暇前に引継ぎをしている間「申し訳ございません」を何回言ったかわからない。こんなに謝ったことないくらい、謝った。お休みいただくことになり、申し訳ございません。ご迷惑おかけしまして、申し訳ございません。何回いったかわからないけれど、すべてに心を込めたはずなのに、なんだかずっと心が空っぽだったのはなぜなんだろう。スタッフさんからいただく温かい言葉に、ぽわっとした気持ちが生まれた。

とっても好きだった仕事。どんなことよりも優先してきた仕事。夢中になるほど、わたしのすべてを詰め込んできた仕事。「お前は仕事が一番なんだよな」って、苦笑いされながら去っていた背中を追いたかったあの日。それでも、選んだのは今の仕事。愛を伝えられなかった様々な時間を考えると罪悪感が湧き上がってくるけれど、しつこいくらいわたしの一番はずっと仕事だった。そこに異常なほどの執着があったのは、仕事が何よりも好きだったということのほかに、ひとりで生きていかなければいけないという気持ちがあったからなんだと思う。結果が全て、お金がすべて、食っていくための生活を作るのが全て。それに必死だった。そのために捨ててきたもの、無視したもの、傷つけてしまった心もたくさんあるんだろうな。わからないほど、人から離れているわけではないよ。非常識だと思われても仕方がないけれど、わたしはわたしの生活を自分でつくることに必死だった。

苦しいことも悲しいこともあったけれど、自分の仕事はとにかく好きだった。心から好きだった。下積みは必要、お金をいただいて勉強させていただいている環境に感謝していた。経験に勝るものなんてないから、やれることはなんだってやってきた。がむしゃらだった。ねちっこいくらい、くらいついた。ガムって、噛みすぎると味がなくなっちゃうけれど。わたしが味わうガムは、噛めば噛むほどいろんな味がした気がする。もっともっと、もっともっと。極論、全部のPANTONEを食べたい。



コロナになったからって、仕事ができないって思われるのが嫌だった。来るメールすべてに「体調不良で申し訳ございません」と返した。なんとなく、コロナというのが気が引けた。ちゃんと家にいた。部屋の空気は心なしか薄かった。高熱の頭で見るパソコンの画面はブルブルして、気持ちが悪かった。始業10時から、遅い時には日付をこえるまで仕事をした。コロナだから、という偏見を持たれたくなかったから、必死に動いた。やばい薬でものんだのだろうか、次第にだんだん楽しくなってきて、ああわたしどんな状況でも仕事できるんだって思えて、それが習慣になるんだって思って、ずっとパソコンを見ていた。

だけど、倒れた。死にかけた。救急車で運ばれた。担架で運ばれながら嘔吐した。なんてこった。自分の限界を自分で知れなかったことに恥を感じた。体調管理って自分がやらなきゃいけないのに、自分のことを自分でわかってあげられなかった。わたしにはそれができなかった。

巷でコソコソ噂になっている「コロナ後遺症」。わたしはどうやらそれになったらしい。普段平熱が36いかないくらいなのだけど、朝起きると言葉にできないだるさと37いかないくらいの微熱がある。さすがに心配でお医者さんにいったら、いろいろ教えてくれた。まず、そういう症例たくさんあるんだって。コロナで後遺症になっている人は本当に多くいて、わたしのメニエールももしかしたら繋がっているかもで、でもわからないことだらけで、エトセトラ。わたしの症状は後遺症かもしれないし、単純に免疫が落ちているから風邪をひいているからなのかもしれないけれど、あとは…なんだっけ。

「本気出したらできるんだから、もっとちゃんとやってよ」

上司に言われた言葉が胸に刺さっていた。ずっと、ずっと言われ続けていた。一年と少し前、精神を壊してからも、言われてきた言葉。精神を壊したのは自分の甘えだといわれたこと、心にこびりついて離れない。のどにつっかえた小骨みたいに、嫌なところに残ったまま流れてくれない。「本気」ってどこにあるんだろう、そして、会社が望む「ちゃんと」って何だろう。わたしにはそのどれもがわからなくて、迷路の中にずっといた。これまでが本気じゃなかったと言われた訳じゃない、ただ、この先もっとちゃんとやれといわれただけの話。

でも倒れてしまってから、自分がもぬけの殻になった。わたしは今、生きているようで死んでいるような、変な状況だ。なんだか最近、自分が自分じゃないみたいな時がある。なんていうんだろう。言語化できない部分が多いのだけれど、多分。疲れている。体はもちろんのこと、頭も疲れている。多分考えることを、諦めている部分がある。朝起きて、今日が始まることが前よりも一層めんどくさくて、夜眠るときに明日の自分が健康なのかどうか考えるのもめんどくさくて、そう。全部、めんどくさい。

鈍っている頭が重くて肩こりがひどい。それでも考えたくないときこそ考えてしまう。人間って、やっぱりめんどくさい。ぼーっとしていながら、ここ最近、ずっと思っていることがある。考えるのがめんどくさい状態なはずなのに、ひとつ思うことがある。

「大人」って、この世の中にいるの?

子供だとか大人だとか、年齢のくせに大人びているとか、年齢のくせに幼いだとか、そんなのあるの、って。疑問の沼に浸かって抜け出せない。わたしよりも生きてきた年数が長い方はもちろん先輩だけれど、それって「大人」なの?

少し前のわたしは、大人になるということについて重く考えていた。結果、なにしたってよくわからなかったけれど、マイナスな答えはいくつか見つかった。自分の中で結論が欲しかったから、そのときには「小さなことを少しずつ諦めること」を大人になることにした。だいぶ未熟な考えだ。そう思うほうが楽だったのかもしれない。わたしは楽な考えを選んでいた。想像することでしか他人とはわかりあえないのに。想像できていない自分に気づけない人も多い世界に。想像する自分が嫌になっていたんだろう。

諦めたものってなんだっけ。

大人になろうと思って意識したことってなんだっけ。そう思っている時点でお前は子供なんだよ、とかよく知らない人の声でたたかれるように言われるのが頭に響く。この声、誰なんだろう。

両親の殴り合い。父に作られた痣。母に向けられた嫌悪感。兄の涙。上司のひとこと。ひとり暮らしをして腐らせてしまった野菜たち。止まった電気。経年劣化を認めない不動産に払った高額料金。好きだった人の家にあった見慣れないコンタクト。なんとなく離れていった友達。いつか消えると言われたのに、いつまでも残る胸の手術後。好きじゃなかったと思っていたはずのあいつの最後の言葉。なぜか一緒にいるとよく眠れる彼の匂いと白い腕。夜道でいきなり駐車場にわたしを押し込めたサラリーマン。やけに手を握ってくるコンビニ店員。わかりあいたいのに、ぶつかる仲間。折れた爪。聞こえない耳。

あちこちに散らばる記憶の断片に、涙が出る。
面白いくらいに、悲しくてわくわくする。生きている。

歳をとった。アラサーになった。世間では大人として見られる。
だからこそ思うことがある。

人って、年齢どうこうじゃないんじゃないのって思う。人の経験なんて、お話をきいたところで自分のものさしでしか測れない。その時に伝えたいと思って話してくれた相手の悲しみが100だったとしても、聞き手が「自分はこんなにつらい経験をしてきた」って思ってしまえば、聞いている側の事情で20になってしまう。わかろうとすればするほど、ずれてしまったりする。だから、どうしてこの人はこういう経験でこう思ったのか、想像することでしか他者とわかりあえない。経験の多さが大事といわれるのは、そういうことだって思っている。何歳になっても人は変われるはずなのに、心が固くなってしまうのは、ある程度の経験で自分を高く見積もってしまうからなんじゃないだろうか。そのことに気づけている大人って、どれくらいいるんだろう。他人を他人だと思うことは大事だけれど、でも、どうなのかな。

優しさなんて、目に見えないんだから。時間をかけて相手を知ろうとすることでしか関係は深まらない。自分の経験で語るのも時には大事だけれど、想像することでしかわかりあえないんだから。だったら相手のことを「知りたい」という好奇心でもいいから。親しき中にも礼儀ありの精神で踏み込む勇気も大事だと思う。こう言われたらこの人はこう思うのかなとか、こうだっだからこうしたほうがいいのかなとか。エゴでも何でもいいけれど、思いやりって結局エゴからでしか芽がでないから、小さいことから始めればいいんじゃないのかな。違うのかな。

人間ってめんどくさいから。感情がある、めんどくさい生き物だから。
言葉で簡単に人は死ぬ。死ぬのだ。死んだ人がいるから、そう言える。

正義だとか悪だとか、どうでもいい。この世界に生きている生物の数だけ、「正解」がある。わたしもその生きているなにかの中の一粒で、わたしがすることが誰かにとっては悪で、はたまた誰かにとっては正。優しさの答えはわからない。優しさについて、語れない。語ったら、優しくない気がしてしまうから言わない。言えない自分は優しくないのかもしれない。
でも、もうそれでいい。わたしはわたしのために動いていく。それが誰かのためになるって、声になるって、ここで書いてきてわかったから。「誰かのため」にしたことが、「誰かのため」になるなんて思ってない。そっちのほうが独りよがりだと思うから、そんなことしない。
その代わり、吐き出すように、吐しゃ物みたいに、この記事をきちんと読んでくれて、わたしが書くものを読んでくれる人には感謝を伝えたい。その方法を考えていたけれど、多分それは書き続けることしかないんだって自分のなかで結論が出たから、書く。傷つけてしまう人がいるかもしれない、わたしのことを嫌いになる人がいるかもしれない。それでも、罪を背負って生きていく。自分のことしか考えられていないと言われても、自分ができることをして広げるしかない。好かれるために生きていない。かといって、嫌われるために生きていない。いつか死ぬために、生きている。

倒れてわかった。自分の病気が難病指定されていたことも知った。今だって平衡感覚が戻っていなくて、大好きだったスケボーができない。くそくらえって思う。大好きなバンドのベースだけ聞こえづらい。これ書いたら怒られそうだし嫌われそうだけど、自分のバンドのベーシストの音、本当はすごく好きだけど、正直聞こえづらくてイライラする。耳って人間のすべてのバランスを保っているのかもしれない。

明日が来なければいいのにって思う時こそ、嫌でも明日はきてしまう。対に、明日が来てほしい時に、それは突然背中を向ける。カゲロウみたいに消えていく。

できることは限られている。なんでもできるよ、なんて思えなくなった。もっとやる気出せよ!って言われても、今は多分無理だ。
だからせめて、わたしに出会ってくれた方に感謝を込めて、弱弱しくても逆に棘があっても、文章で叫ぶ。わたしみたいな人のために、わたしみたいに苦しんでいる人に届くように、ここで叫ぶ。笑ってくれた人、泣いてくれた人、怒ってくれた人。

わたしみたいな人はわたしが救う。その覚悟を持って、書いていく。「お前、わたしわたしうるせえ!」って思ってくれていい。
その怒りが、どこかであなたを救う時がくるかもって思うんです。

人生って、なんなんだろう。大人って、何なんだろう。まっとうに生きるって何なんだろう。好き嫌いって、なんなんだろう。答えがでないままだけれど、永遠に考え続ける人生の宿題。心に抱えるジャポニカ学習帳の表紙は、毎年変えて良い。何年たっても、ずっと若くていい。未熟だったら、熟れる日を楽しみにすればいい。

いつかの自分がわたしを見たらどう思うんだろう。結局わたしはわたしでしかなくて、その問いの結果がでない。なりたい自分はその時によって変わっていくし、出会っていく人によって自分の人生が動いていく。「この年になったら人は変われない」なんてよくきくけれど、多分それって、他人を他人だと諦めて「他人」の意見を聴けなった瞬間からのことを言うんだと思う。友達も家族も恋人も他人であることには変わりはない。だけど、他人ってすごい。自分とは違う人生を歩んできて、見たもの食べたもの聞いてきたもの、全部違うのに。ある日突然出会って、心が動かされたりする。いくつになっても、出会いには感謝をしたい。何歳でも、何をしている人でも、伝えたいと思うことがある人の声は、どんなに聞きづらくても聞きたい。

書けないから書かないなんてもうしない。逃げない。世界に嫌われたって、わたしはわたしを愛すために書く。自己愛でいい。無責任でいい。叫ぶなら、思いっきり叫んだほうが気持ちがいい。それにやまびこみたいに応えてくれる、読者の方にとびきり感謝している。

みんな自分を好きになりたいんじゃないのかな。
わたしは自分を好きになりたくて、生きる意味を探してここにきて、こうやって書いているけれど。
みんな叫びたいんじゃないのかな。言葉にできない何かを抱えて、生きているんじゃないのかな。
どうせ誰かに嫌われるんだったら、自分くらいは自分を好きになっていいんじゃないかな。
いい女じゃないです。ポジティブで明るくて、温かいような人間じゃないです。
でも、それでも生きる。わかる。想像することでしかわかりあえないけど、わかりたい。世界のこと、国のこと、人のこと、愛のこと。
爆発するまで生きるしかない。好かれるために、表現をしているわけじゃない。

怒りが悪とは思わない。怒っていい。泣いていい。
そのあとどうしたいかだけだから、ぶつけていい。
わたしはそういうものがみたい。

今日も生きたわたしと、一緒の時代を生きているあなたが大好きだって、心から思うんです。
そうやって生きていく。わたしにとっての愛は、人にとっては特殊かもしれないけれど。
愛を伝える方法は、人の数だけあっていい。

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