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個人のノウハウや知識が溢れるSNSで

SNSで「べき論」が量産されている。これはこうあるべき、これはこうするべき、そういったノウハウや知識が今日(コンニチ)のSNS界隈で溢れかえっている気がする。
個々人の発信力が凄まじく上がったこの現代。知らない誰かの秀逸なツイートをフォロワーさんのリツイートで見かけて共感することもあるし、そこから新たに繋がりができることもある。知らない誰かが書くことは意表をつくことばかりで、「そんな考え方が!そんな見方が!」と頷くことが少なくない。知らなかった情報、及ばなかった知見、それら全てがSNSでたくさん発見できる。

ここでひとつ。
わたしは「発信」について改めて考えたいと思う。

情報というのは、いうまでもなく「正しさ」が大切だ。ソースのない情報というのはその正しさが推し量れないので、信じるに値しないデマである可能性が高い。
発信力のある顔の見えない誰かの書いた文章がとても納得のいくものでも、それがどう正しいのか・どう納得がいくのかは、受ける側が常に考えなければならない。間違った情報を「面白い」という理由だけで拡散して、間違いを広める一因になってしまったら元も子もない。取捨選択にはかなり頭を使う。

メディアの世界で記事を作成する際には(端くれで働いている身として書きますが)その記事に誤りがないかどうか「校閲」にまわしてから記事を発信することになっている。
「校閲ガール」という書籍をご存知だろうか。書籍に誤字脱字、矛盾などがないかを調べるのが校閲者さんのお仕事だ。前のページでカタカナ表記なのにこのページは漢字になってる、とか、絶対に気づけないようなところまでツッコミをくれる。
まさにあの校閲ガールそのままで、そこに書いてあることに間違いがないか、それを見つける専門のお仕事の人たちが「正しさ」を間違わないようチェックしてくれる。それが記事を、「発信」するときのルールだ。

さて。
わたしが情報に関する記事を書こうとしたのは、岡山県の自然災害の際、ネットの様子を見てずっと違和感を覚えていたからである。

災害時に、わたしはツイッターを見て嫌気がさした。
被災地で実態を訴えかけるツイート・食料や電力の必死の訴え、命の叫びが流れる一方で、間違った情報・今流すべきではない発信を何個も見た。
発信力が高いはずのインスタグラマーやnoteの発信者がしていたことで多かったことといえば、「わたしが考える災害について」の記事や意見を書いていたこと。個人の意見、こうしたほうがいい、災害に対するある種の同情。水も電気も何もかもがそばにある安全圏の人たちが、さも偉そうに、自分が注目を浴びるような記事をたくさん書いていた。

今、考えている場合ではないよな。
今、そんな無事な立場の人たちが災害について語るときじゃないよな。
ここぞとばかりにノウハウや知識を振りかざして記事を書いていたでしょう。わたしは、見てました。
発信できる立場の人たちは己の考えを綴って注目を浴びていた。今自分が一言なにかを発することで、集まるべき視線が自分に来てしまうことを理解せずに。
なぜそれがリツイートされるのか、なぜそれが記事になるのか。なぜ。
助けを求める人の正しい声が伝わらず埋もれてしまっている、どうしてそれに疑問を持たない人がいるんだろう。そう思うことがたくさんあった。

タレントさんや女優さんが、災害時や緊急事態にインスタやツイッターの投稿を自粛することがある。叩かれたあの女優さんも、多分全てタイミングが悪かった。人の死が起き続けているそのとき、謹んで華やかな様子を見せないという意味合いがある一方で、
わたしはこれは「自分に注目を浴びせないようにするため」だと思った。影響力のある人だからこそ、こういうときに発信をする責任というものを知っているのだと、わたしはそう思う。(言うならばこれもわたしの独自の解釈なので、気にされなくても結構です)
例えば、明るく華やかでファッショナブルな情報を流したとしたら、きっと一気に自分に注目が集まってしまう。今まさに、届かなければならない・広まらなければならない情報なんてあっけなく埋めるくらいの大きさで、視線を集めてしまうかもしれない。
それがわかっているから、だから。
黙る。黙ってみる。
そう言う意味合いも、あるのではないでしょうか。

ましてや私たちは、一般人。隠そうと思えばある程度身分を隠しながらSNSができるこのご時世。
顔なんか出さなくても容易にバズれるかもしれないこの立場。拡散で誰かの人生を狂わせることだって簡単かもしれない。社会のルールを歪めることだって、難しくないのかも。
それを危惧している様子が、最近のSNSでは全く見受けられない。

個人で発信できる時代だからこそ、各々が責任を持たなければならないとわたしは思うのです。「こうあるべき」や「こうしたほうがいい」という独自の世界観を書き綴ることが物書きの醍醐味かもしれないけれど。
今一度、情報の発信について考えて見てもよいのではないか。

例えばnoteの記事というのは、大抵は無料で読めるものだ。ツイッターもインスタグラムも、無料のアカウントである。
noteやブログというのは趣味半分、そしていつかライターさんやクリエイターさんになりたいと願って書き綴る人も多いのだろう。

たとえ無料の記事だとしても。
書く、そして知らしめる立場にいるものであれば、「発信がいかに怖いものか」を理解せずしてものを書く資格はないと、わたしはそう断言したいです。
間違った情報を流すことがどれだけ怖いことであるか、文字を扱い言葉で発信する役割のメディアで働く人たちが、いつもどんなにそれを危惧しているかを、わたしは今ここで少しだけ伝えたい。
「お金を払わせるコンテンツをつくっているからそう言うんだろ」と思う方ももしかしたらいるのかもしれないけれど。
そうでしょうか。大事なのって、お金でしょうか。本当にそうですかね。
無料だからいいだろ、ツイッターなんだからいいだろ。そう思うならば、その時点で「発信者」ではないと思う。
発信者ではないのなら、この記事は忘れてください。

わたしもたまに、「書き方」について偉そうに発信することがありますが。
そして、いじめだのブスだの就活だの書き綴っていますが(これはちょっと主観まみれで本当すみませんって思います)
ノウハウを書くときには、何度もなんども推敲して、これが世の中の人の目に触れて大丈夫なのか気をつけて書いています。
知識やノウハウというのは、人の根本に訴えかけるかなり大事なことだということ、それは常に念頭に置いている。
教育というのはまさにそうで、「教える」というのは、誰かの考え方の根本に訴えかける
こと。本当に責任の伴うことだと思います。いい歳した大人に何かを教えるというのは、生きて来た今までの考え方をぐらつかせるということ。その人のこれまでの常識に触れて、変えようとすることだと思う。

だとするならば。
そのような情報を発信するということに、危機感は持たないといけないと、強く強く思うのです。
ツイッターの文字数が限られたツイートでさえ、誰かの考え方を揺さぶることになりかねないのだから。そして間違った情報を流して誰かの人生、社会を狂わすことになりかねないのだから。
それだけは、忘れてはいけないと思います。
責任をもたずしてただバズり目的で発言、そんなので注目を浴びて、それって発信者としてどうなのでしょうか。

自分で記事を書くならば、自分で校閲もすべきだ。客観視をする、そしてそれが今求められているものなのかどうか、今一度考えて発信するべきなのではないだろうか。
主観満載の自己満記事ならおそらくいつ書きなぐってもタイミングとしては変わらないのかもしれないけれど。
「べき論」や知識、ノウハウを発信する際には、それだけは気をつけたほうがいいとわたしは思うのです。

今日ここに書くことでわたしも自分に言い聞かしているのですけれども。
溢れる情報に埋もれないように。
正しさを見失わないように、書けたらなあと強く思うのです。

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