見出し画像

今日も家が揺れている

今日も地震があった。ゆっくりだけど大きな揺れ、早くやんでと心の中で叫びながらじっと耐える。あっ、止まった、肩をなでおろし安堵する。地震が起こると私たちはなすすべもなくただ、やむのを静かに待つしかできない。地震が起こるたびにあの頃のことを思い出す。3年前に起こった熊本地震、私の住む町で起こったことを・・・。


地震が起こった当時の話

2016年4月14日21:30ごろ、私は駐車場に車を止めて降りたところだった。地面が大きく揺れて何が起こったのか分からず、パニックになっていた。数分経ち地震だと気づいた。「病院は大丈夫だっただろうか?」私の勤める病院は震度5強になった時に自主参集という合言葉があった。急いで病院に向かう。病棟につくと、カルテやパソコンなどが床に落ちて散乱していた。夜勤勤務のスタッフをを見つけて声をかけると「怖かった」と涙目で言い、私の肩によりかかっていた。入院中の患者への被害はなかったが、その後も起こる余震に眠れずに過ごしていた。テレビで地震速報を見ると震度6弱と報道されていた。しばらく待機していたが特に大きな被害はないとのことで解散となった。

自宅に帰ると、リビングのテレビが倒れていた。液晶が壊れていたのでたぶん使えないだろう、でもそのほかは被害がなかったのでよしとしようそう自分に言い聞かせていた。

4月16日1:30頃、そろそろ寝ようとベッドに入ってしばらくしたころだった、本震が私と主人を襲った。最初は小さな揺れだったが、どんどん大きくなりベッドとともに右へ左へ体が持っていかれた。20秒の時間がとても長く感じた。揺れがおさまったと同時に「逃げよう」と言われ、最小限の荷物をバッグの中に入れ外に飛びだした。実家や家族が心配になり電話をするが、回線はパンク状態になっており繋がらなかった。LINEで安否を確認すると全員無事で、安心した。停電していたのでスマホのライトをつけ、玄関へと向かうと、地震によって食器棚は倒れ皿が飛び出し、割れて床に散らばっており、電子レンジや乾燥機も落ちて散乱していた。飛び散ったガラスでけがをしないようにスリッパをはいて玄関まで歩いた。ここは自宅なのかと現実を受け入れられない自分がいた。外に出ると近所の人達も非難をしていた。建物がない駐車場のようなところがいいとの情報を聞き、車で駐車場に向かう。近くの小学校は駐車できないくらいの車が止まっていた。携帯で調べると、震度は6弱だった。「病院に行かないと」、私は主人を連れて勤務先に向かった。道路を進んでいると橋が崩れ通れなくなっていたり、陥没や盛り上がっていたりして地震の恐ろしさを見るたびに感じた。
病院に着くと、地元の人が非難をしていた。天井が抜けて配管が飛び出ていたり壁に亀裂が入っていたりしていたが建物自体は大丈夫だった。患者の安全確認や医療機器の作動確認を行った。人工呼吸器のような医療機器は止まってしまうと、即生命の危機になってしまうからだ。自家発電がうまくいかず、その度に電源が切れてしまい、用手で呼吸補助をしながら朝を迎えた。朝までに余震が何度もあり、一瞬も気が休まらなかった夜だった。

何日も余震が続いた。携帯のサイレン音が鳴るたびに鼓動は早くなり、手が震えパニックになった。それほど自信が怖かった。

その後電気ははすぐに普及したが、ガスと水は数日止まっていて何日もお風呂に入れなかった。テレビで熊本のシンボルである熊本城や、阿蘇のミルクロードが崩れたのを知った。また、高速道路も倒壊し国道は毎日渋滞しており、救援物資がなかなか届かない状態だった。被害の大きかった益城町では多くの家屋が全壊し、避難所での生活を余儀なくされていた。コンビニはどこも営業できなくなり、すぐに食べ物や飲み物が買えなかった。


地震を体験して思うこと

あれから3年、今も復興活動は続いている。まだ自宅に住めずみなし住宅に住んでいる人も多い。阪神淡路大震災や東日本大震災など多くの人が犠牲になった地震があるが、どれもテレビの向こう側で起きていることでどこか他人事のように思っていた部分があった。

テレビの向こう側で起きていたことが突然自分の目の前で起こると、私は手も足も出ず、ただ壊れていく街を静かに見ていくしかできなかった。自然の恐ろしさがそこにあった。

地震を体験して思うことは、当たり前にある環境がいかにありがたいことかと再確認できた。ベッドで眠ることもいつも食べるご飯もお風呂に入ることも、普通にできていることが出来るだけでも幸せなんだなと。

災害の中でも生きていられたことに感謝し、精一杯自分のできることをしようと思う今日この頃です。

最後まで記事を読んでくれてありがとうございました!