戻っているわけじゃない、変わろうとしている。


もう戻りたくない


大事な人がいなくなった時にも、大きな失敗をして挫折した時にも。



頭の中の記憶にはいい事よりも悪いことの方が色濃く残っている。思い出すことはいつだって辛い事の方が多い。それは決して同情を誘っているわけではなく生きるために必要な本能。ネガティブな過去を少しでも良くするために繰り返し巡らせることで印象深く残ってしまう。同じ過ちをしないためにどうしたらよかったとか、試行錯誤したりとか。深く考えて行動するからこそ成長ができていく。

わたしは苦しかった自分には戻りたくない。だから必死で足掻いている。生きるためにどうあるべきかと答えが出ない問いを投げかけたまま。そうすると自ずとあの頃の自分が頭の隅っこから引っ張り出てくる。辛くなりたくなくて辛い気持ちを思い出す矛盾な作業を今日も続けていた。


きっとなんとなく漂っている方がいいのかもしれない。今更ながら頑張ってしまう自分に人生の半分は損していることに気付いてしまった。





小雨が降る中、わたしは車を走らせていた。普段なら100円ほどのもので済ませているパンをお気に入りのお店で買うために。そのパン屋はどこの県にもあるデパートの一角にあった。車を止めて、わき目もふらず赤い看板の中に入っていった。昼時ではあったが、店員さんしかおらず入ってきたわたしにいらっしゃいませと元気な声をかけくれる。こじんまりとした店内に数種類のパンが並べられていて、トレイとトングをもちとりあえず一周してみた。どれもおいしそうではあったが1人で食べる分を考え吟味しながら取る。どんな店でもそうだけど並んでいる商品を見ているだけで落ち着いた気持ちになるのはなぜだろう。そんなに裕福ではないから商品を見るだけで何時間も居られる。わたしが余るぐらいお金を持っていたなら、きっと買い物依存症になっていたかもしれない。いつもは嘆く貧乏も、この時ばかりはありがたく思った。


店に入った時にはわたししかいなかったのに気づけば人だかりができていた。狭い店内ではあまりにも多すぎて容易にパンを眺めることが出来ないくらい。ウインドウに並んでいるパンを選んでいるといつの間にかわたしの右側には5~6人の列ができていた。自意識かもしれないがコンビニやスーパーに自分が入った後に混みはじめることは多々ある。いつもは「わたしが人を呼んできた」と言わんばかりに自慢気に店内を歩いていたが今日はどうも様子が違った。横に並んでいる人たちが自分に迫ってくるようにかんじて、頭がズキズキし動悸がしてきたのだ。


本当はだれも見ていない、でもわたしにはみんながこっちをずっとにらんでいるように見えた。そう思うと立ったまま身体が石のように固くなって動けなくなっていた。時間にすると数秒の出来事。だけどわたしにはとても長く感じた。正気に戻って「早くここから離れなければ」もう選ぶことなくレジに向かった。わたしのトレイには2つのパンだけがのっていた。会計が終わってうつむいたまま店を後にし、車に戻った時には呼吸と鼓動が早くなりぐったりとなった。

パンを買う。たったそれだけのことなのに10キロマラソンを走ったようにわたしの身体は疲弊していたのだ。




きっと、変わりたいと進み始めると昔の自分が今のわたしを捕まえて離さない。不安が大きくなると足をすくわれてしまう。今日のわたしはそんな状態に陥っていただけだ、戻ったのではない。
”変わりたい”と”変われない”自分がコインの表裏のように交互に出てきて惑わせる。現実と向き合っているからこそつらい気持ちになるのだろう。
わたしはほかのだれかではなく過去の自分と戦っていた。昨日の自分や数か月前の自分と。

違う視点で見てみるとわずかな差かもしれないけれど今日の自分が進んでいる。わたしはわたしを精一杯生きている証拠だ。誰かと比べてしまうときりがない。「あの人よりかわいくない」とか「あの子よりできてない」とか。自分のできることよりもできないことのほうがたくさんあってどうしても誰かと張り合いたくなる、わたしのほうが出来ていないのだと。誰しもが完ぺきではないから、不安だから肯定の材料を外から探してくる。生きていくためには比べることからは逃れられないように思う。

でも、誰かを超えることは絶対にできない。それはわたしではないから。


今日も弱気になっているわたしをそらさず見ることができた、そう考えると少し楽になった。


深呼吸するといつもの空気と違う味がした。




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