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転がる香港に苔は生えない

新しいジャンルの本を読み始めた。それは、私にとっては未知の世界だった。『転がる香港に苔は生えない』。近所の本屋の文庫本コーナーでタイトルを見た瞬間、私はふと目が止まった。数多ある本の中から、連休中に読むのにぴったりな本を探しにいって、本当はしっとりとした恋愛小説の気分だったのに、なぜか目に止まったのは『転がる香港に苔は生えない』。

「転がる石に苔は生えない」が元の表現だったっけっか・・・イギリスの諺だったはず。意味は、いつも覚えられない。プラスの意味なのかマイナスの意味なのか、よくわからない曖昧な諺は苦手だ。「犬も歩けば棒に当たる」も私の中で同じカテゴリーに入っている。

そんなことが脳裏によぎりながら、吸い込まれるようにその本を手に取った。髪がボサボサで、性別不詳の東アジア人二人の写真。裏表紙を見る。「1997年7月1日、香港返還。その日を自分の目で、肌で感じたくて、私はこの街にやってきた。・・・」そして裏表紙の帯にはこう続く。「東と西、左と右、資本主義と共産主義、個人主義と家族制度、合理性と伝統、考えつく限りのありとあらゆる矛盾を彼らは呑み込み、黙って受け入れるふりをして、まんまと他に類を見ない美味しいスープに仕立ててしまったのである。」打ち抜かれた。完全に私の好みだった。

ふと、ある記憶が蘇る。去年の秋、勤務先の専門学校で、私が担任しているクラス、政治学・政策学専攻に入ってきたばかりの1年生が、ゼミの時間に香港の民主化運動についてグループ発表していた光景だ。私のゼミに入るまでニュースなど観たこともなかった学生もいる。一国二制度はもとより、香港返還のこともアヘン戦争のことも知らない、2000年生まれの子ども達(世代のせいだけではなく、半分以上は圧倒的勉強不足が理由だけど。)。その子たちが、発表のために香港のことを調べた。こんな近くにある、名前だけは知っているその場所で、「そんな歴史があったとは」「そんなことが起きていたとは」と初めて知って、あまりに無知だった己に気がついた時の、驚きの表情。私はその本を手にとって、生徒のそんな様子をふと思い出していた。

その時の私は、「アヘン戦争も香港返還も知らないなんて・・・」と半ば呆れていた。でも、私は人のことを言えるのか?一体私は、どれだけ香港のことを知っているというのだろう。行ったこともないのに。教科書的な知識以外でカナダ研究者の私が知っているのは、カナダには香港からの移民が多いということくらいだ。それも、香港人は英語ができるからカナダに来るんだろう程度にしか認識していなかった。これで、何を知っているといえるのだろうか?私もまた、無知だった。

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もう一度、『転がる香港に苔は生えない』と書いてある表表紙に目を向ける。ジャケ買いする私にとって、正直あんまり魅力的な表紙には見えない。一度はその本を棚に戻した。そもそもしっとりとした恋愛小説を探しにきたのだ。でも、どうしても気になって、もう一度その本を手に取った。星野博美。作家は女性だった。女性が、一人で、香港返還の瞬間をその目で見て、肌で感じるために香港へ?

私は強烈に嫉妬した。そして星野博美さんの気持ちに共感した。なぜなら私は、その土地に行って、目で見て、肌で感じたいというものすごく強い欲求を自分の中に飼っているからだ。

フランスにいたときも、パリの汚いところを歩いてこの目で見ることを好んだ。ニューカレドニアに行ったときも、スクワットと呼ばれる先住民の不法占拠住宅の家にお邪魔した。夫は、そんな危険なことをするなと怒るだろう。でも私は、人間が生活してる場所が見たい。遠いところで起きている政治が、社会や街並みや人の生活の営みに、どう傷跡を残しているのかを見たい。自分の目で。自分の肌で。それをしないといけないような気がしてる。あまりに自分が恵まれすぎていて、ぬくぬくと暮らしていることに、どこか罪悪感があるかのように。私は歴史を、社会を、自分の目で見て肌で感じたい。

***

そして今日。購入した本を食い入るように読み耽っている。読み始めたら、これが想像以上で期待以上。星野博美さんが歩いて、見て、聞いて、肌で感じている香港を一緒に体験することができる。中国語も広東語もわからないし、背景知識が希薄すぎてところどころピンとこない。そんな時は、YouTubeで関連動画を探して勉強する。集中しすぎて疲れたら、Amazonプライムビデオで香港映画を観た。今日観たのは、『香港製造(メイド・イン・香港)』という映画。

600ページ以上あるうち、まだ5分の1しか進んでいない。そのたった5分の1でもたくさんの気づきや学びがある。必死に消化している最中のその新しい世界は、とてもまだ言語化できる段階にない。わたし本当に何も知らなかったんだ、という新鮮な驚きと恥ずかしい気持ち。だから、今は何も結論めいたことはいえない。ただ1つ言えることがあるとすれば、今私の心は、1997年の香港を歩いている。その旅の行方は、わからない。



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