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自分と調和しながら書くということ

昨日書いた記事はボロボロだった。書いている最中から、なんとなくわかってはいた。

どうボロボロだったのかといえば、なんていうか、自分のよくないエネルギーが行間から滲み出ている感じ。書いている最中は、おもしろおかしく書いてたつもりだった。でも時間が経って冷静になってみると、南天ゲームをめぐって夫に抱いたいらいらがちっとも隠れていない!書いた本人は隠しているつもりだったのだけど・・・多分はたから見たら、まったく隠しているようにみえないはず!

実際、夫からは「悪意がある」とクレームを受けてしまった。

そういう気持ちで書いた文章ってよくない気がする。書いている自分のエネルギーもよくない。そのよくないエネルギーを文字に乗せてnoteのプラットフォームに送り出す。その行い自体もなんだかよくない。私の文章をせっかく読んでくれた人にも失礼だもの。イライラした出来事ことをそれでも尚書きたいのなら、いっそそのイライラを素直に書く方がずっといい。本当はそう思うんだ。

でも昨日の私は、あの記事を書きながら、たしかに自分の気持ちを隠そうとしていた。負の感情を隠そうとしている自分に薄々気が付きながら、見て見ぬ振りをしていた。心に湧き出る素直な感情と、書いて思考する自分の脳と、バラバラだった。自分が調和していなかったのだ。

noteをなるべく毎日書こうと心がけて1ヶ月とちょっとが経つ。その中で、最近感じる難しさがある。それは、noteを書く時の自分が必ずしもいいエネルギーとは限らないということだ。

「今日は何を書こうかなぁ」と考えているとき。記事に合わせる写真を選んでるとき。あるいは、テーマは決まったはずなのに実際に筆を進めてみるとあらぬ方向に文章が流れてしまうとき。自分の中になにか不調和を感じる時にnoteを書くと、なんていうか、パズルが噛み合わないような小さなモヤモヤがある。そういう時に書いた文章は自分でも「なんかちがうなぁ」と薄々気がついている。「なんかちがうなぁ」と思いながらも自分で締め切って公開ボタンを押す。

毎日の生活の中で、こうして自由に作文する時間を組み込んでみると、そんなことまで考えるようになった。

書くことは思考することだと思っていたけれど、書くことは感じることでもあるみたい。いずれにせよ、書くことで自分が丸裸になる。感情や思考を言語化し、文字に興すというこのプロセスは本当に不思議だ。書くと、文字という視覚化された媒体が生まれる。それは文章となって、読み手に情報を伝達する。だけど、それだけじゃないんだなぁ。不思議なことに、視覚化されていない行間にまで、書き手のエネルギーが乗ってしまう。だから、書く内容以上に、書くときの自分の状態の方が大切なのかもしれない。

昨日、自分の中でも「ああ最低だな」と思う記事を書いて、そんなことを考えました。

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