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性的表現が公共の場に出てきてしまう、もう一つの理由

もう一つと言うからには、批判される際に定番になっている理由があるわけだが、公共の場の性的表現については、これまでもさまざまな議論がなされてきたので、あえてここでは触れない。今まであまり指摘されてこなかったことを書いてみたいと思う。

①性的表現を公共の場で見たいか

性的表現を公共の場で、どうしても見たい人はおそらく少数派であるに違いない。では、なぜ性的表現が公共の場に出てくるのか。

金塚貞文は性的表現は性的欲求をかき立てるものと定義している。かき立てる必要があるのはなぜだろう?
それは人々の性的ボルテージが低下しているからだというのが、その答えだ。性的ボルテージが上がっている状態なら、あえてかき立てる必要はない。公共の場に出してまで性的欲求をかき立てないと、人々はもはや性に対し積極的姿勢を見せることはなくなったのである。

②性の魅力が低下した歴史的理由

この本によると、宗教には3つの梯子があり、1段階目は人身御供(これは原始古代)、2段階目は道徳時代(中世)、3段階目は神を生贄にする無信仰の時代(近代以降)である。ここで言われている道徳時代とは、世界宗教が支配的だった時代、ヨーロッパではキリスト教、東アジアでは仏教、西アジアではイスラム教が人々の心を捉えていた頃のことだ。
世界宗教の特徴は、古代の宗教と違って道徳を人々に説く側面が強いことであった。これらの道徳的宗教は性を忌むべき存在とした。これが性の魅力が低下した遠因のひとつとなっていると考えられる。
 
 もうひとつの歴史的理由は、近代以降の文明化である。こちらについては、しばしば指摘されているので、詳説は不要であろう。文明は性の重要性を低下させるように機能する。

③権力と性

ボードリヤールはフーコーを批判する文章の中で、フーコーが力説したような力を性はもはや持っていないと主張している。性はかつての魅力を喪失したが故に、それがあたかも魅力を持ちうるかのように、公共の場で宣伝広告しなければならなくなったというわけなのだ。
ボードリヤールはファシズムを「民主主義によって、権力の魅力が色褪せた時代に、権力の魅力を復活させようとする絶望的な形態である」と定義している。だとすれば、性的表現も性の魅力が色褪せた時代に、性の魅力を復活させようとする絶望的な形態だということができるだろう。ファシズムのいかがわしさは、性的表現のいかがわしさとどこかにおいて、通底しているようにも見える。

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