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両親②:私の最初の安全基地

家族を振り返るシリーズ。両親について、2本目の記事。やっぱり父も母も、私の最初の安心できる居場所をくれたことが今の私につながっている。私は自分の家族にそんな居心地のいい家庭を作れているだろうか。自分自身が育った環境を振り返りながら、今、何ができるかを考えてみたい。

核家族でも濃いつながりと支えの中での子育て

父も母も、私を最大限に尊重してくれた。今、そのことがどれだけ私の支えになっているか。私自身の子育てを振り返っても、親が子をそのまま尊重するということは、なかなか簡単なことではない。親自身の価値観や経験と、目の前の子どもの状況がぶつかることも多々ある。

なぜ両親が私を最大限尊重してくれたか。それができたか。両親の価値観が私に合っていたこともあるが、アルバムを振り返れば、両親は親世代とは同居しない核家族でありながら、たくさんのつながりと支えの中で子育てしていたことがうかがわれる。

母の弟の奥さん、つまり義理の妹(私にとっての叔母)と、私の従姉たちと。
ベビーカーから両親を見上げる私

私が生まれた当時、大阪府豊中市に住んでいたが、愛知県知多市や名古屋市の祖父母とよく会い、面倒を見てもらっていたことがわかる。叔父・叔母やいとこたちとのつながりも濃かった。昭和という時代もあるだろうが、核家族でも、たくさんのつながりと支えは、きっと両親の育て方や価値観にも少なからず影響を与えていただろうと想像される。

母方の祖父母の所有する別荘に、父方のいとこたちと。今じゃ考えられない濃い、両家の付き合い

いろんな人と付き合うから、寛容にもなれる

両親の親戚が濃い付き合いをすることはメリット、デメリット、いろいろあるだろうけど、結果的に何がよかったのか。いろんな人がかかわるから、それぞれの人への違い、多様性に寛容になる。両親だけで私を見なくても、みんなが代わる代わるお世話してくれる。濃い付き合いに直面する両親には、手間がかかったり大変だったりしたこともあっただろう。でも、お世話してもらった私にとっては、いいこと尽くしのように感じる。

両親が私の最初の安全基地になってくれたきっかけの一つがここにある。私と言う存在を丸ごと認めてくれる安心感。失敗しても何とかなる。いいときも、ダメなときも私は私。そう思える心の根幹を赤ちゃん時代に育ててもらった。

赤ちゃん時代に住んでいたマンションそばの公園でお友達と。今は全然会えていないけど元気かな

今は価値観の違いが際立ち、暮らしのリズムも家庭や世代、地域によっても差が激しく、なかなか濃いつながりを持つことが難しい。でも、諦めずに機会を作っていきたい。自分が親世代のときには難しくても、自分の子どもが親になる頃には、もう少し付き合いやすい世の中になっているかもしれない。

あなたの赤ちゃん時代は、どんな家族の形がありましたか。2022年12月17日(土)9:45~、ドキュメンタリー映画『うまれる』を観て、家族について語る会を開きます。赤ちゃん時代のアルバムをもう一度開いて、お話してみませんか。

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