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しあわせが、嫌いだった。

エッセイ4回目。は、苦しくなる人もいるかもしれないから、読むにおいて様子を見てください。むりしないでね。わたしの感性の話、です。
抽象的で分かりづらい部分が多いかもしれません。具体性を持ったものを書くのにはまだ、時間を要する、のです。


いざ。


愛のむきだし をみながら、
「お前は悪いこか」
あなたの感性はキリスト教徒のようだ、と言われたことを思い出していた。その自罰の精神は、原罪意識に起因するのではないか、と、指摘されたのだった。
絶対にしあわせになってはいけない、と自分にいいきかせた過去はその言葉の意味よりもずっと心地がよかった。幸せ、という音の感触が苦手だった。しあわせは怖い、感じた途端に崩れてしまうかもしれない、幸せと破滅は、紙一重だから。
そうして自分を叱責しては安心した、人生の多くをそれで費やした。
そういう習慣が、身体から抜け落ちていったのは、いつ頃からだっただろうか。自己分析を試みて、状態を把握できたとしても、課題解決を実行できるとは限らなかった。
意識的にやめようと試みたのは、憧れのひとから「自罰的な表現は高が知れているよ。1日ひとつどんなに些細なことでもいいから、自分を褒めることから始めてみて。」と、アドバイスをいただいたことがきっかけだった。
1日ひとつ、些細なことでもいい、自分を、褒める……
困難だった。褒めようとするとわたしのなかの小さな子どもが暴れた、本当はそれがいちばん欲しいはずなのに。受け入れきれない、伸ばされた手をはたき落としてしまう。
無理やりでもいいから、やってみた。そうするといつの間にか、文章が書けなくなった。
感性的な部分が削ぎ落とされ、自己肯定に満足もいかない日々がつづいた。苦しみさえ、もはやどうでもよくなっていた。これじゃないだろうな、という違和感は抱えつつ、それをどうにかしようと思うこともなかった。抗うのにつかれた、否定はものすごい労力を消費することに気づいた、今思えばこれは過渡期だったのだと思う。
生活をつづけていると、ここにいる自分と、否定を望んでいた自分とが、統合されていくような気がした。上手く乗りこなしている、とは言えないけれど、なんとなく今は、適度な状態を保てているような気がする。
無理やり否定せず、あるがままを受け入れ、なおかつ少しだけ、ほんの少しだけでも、前を向けるわたし、は本当に素晴らしい、そんなわたしを心から誇りに思う。まさかこんなに 世界 が違うとは。それは 自分 が違うということ……
未だに恐怖する癖が抜けない、のは事実だが、焦らずゆっくり、しあわせ だとみとめられる感性に向いていけたらいい。無理にそう思わなくていい、みとめなくていい、感じたいとおもったときでいい、そう思ったときが、そのときだ。

そんなわたしが、過去よりももっとすごいパワーでパッションで、描いていく世界は、きっともっと、ずっと明るい(明るくなくても、いいんだよ) 大きなものになると、そう信じている。

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