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1973年のピンボール/村上春樹 解釈

2回読んだ。
ピンボール、風の歌を聴け、ピンボールの順。
そして、やっぱり分からないことも多かったけど、なんとなく言わんとしていることはわかった。
初期作品だけあって、テーマの包括度または抽象度に磨きがかかっており、咀嚼するのに時間がかかった。

この物語はノルウェイの森と同様、生と死をテーマにしている。
1969年、直子が生きていた時代は生で、
1973年、彼女が死んでしまった後、僕はもぬけの抜け殻、生を消費するだけの存在に成り果てる。

そんな折、”天使”として描かれる双子が、僕のもとにやってくる。
理由はおそらく、”僕”を元いた場所に帰すため。

配電盤は、時と命を司るもの、実体のあるもの、つまり僕の”心臓”を意味する。

その他にも登場するキーワードとしては、
無人灯台、生を求めて何度も旋回する魚の群れ、墓地、鼠、僕、風呂場のなにかの影、抜け殻、井戸(過去の自分との対話?)、墓地、貯水池(安眠場。つまり、墓)、冷たい雨、
犬など、死または終わりの見えない生に苛まれる存在を彷彿とさせる言葉が羅列する。

そして、スペースシップと名付けられた、3フリッパーのピンボール。これが最後までよくわからなかったが、神または女神、つまり生命を司るものが具象化した存在だと捉えると、すごく腑に落ちた。

最後の場面、僕とスペースシップ(彼女)との対話の場面は、生死の境目での会話を意味する。これにより僕は一回きちんと心ゆくまで死に、成仏され、またもう一度輪廻して生を歩むことができる。

冒頭にもあるように、ピンボールが何度も点滅とリピートを繰り返すシーン。
これが何を意味しているのか、やっとわかった。知人の死をもってして。
これは、人生そのものを表してる。ピンボールで。
いくら何をどうあがいても、また一から振り出しに戻されるのが、この人生というもの。そんな繰り返し。鬱屈した気分で繰り返される生。たぶん、そういうことだ。

そこから私たちは、どう生きるのか。
知人らをはじめとする死への誘惑にも負けず。

そんなことを、村上春樹はピンボールをもって私たちに語りかけているような気がしてならない。

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