知らない(パウル・クレーと愛の詩集)

クレーが好きだ。『思考のための死』とか『釣り人』とか、好きな絵はたくさんあるけど、有名なのは、『忘れっぽい天使』などの、天使の絵だろうか。白い紙に黒い線。の、簡素な絵。


晩年、強皮症を発症し、思い通りに動かない手で綴った線。が、とても優しく、とても悲しい絵になった。(と、感じているのは、ぼくだけど。)


クレーの天使達は、知らぬ存ぜぬ内に、ことばを呼び寄せる。谷川俊太郎は、彼らに心を動かされ、詩を寄せた。(谷川俊太郎『クレーの天使』2000年)


そして、ぼくが読んだ『パウル・クレーと愛の詩集』は、クレーの天使達と、もともと存在する詩(ヘッセ、高村光太郎、ヴェルレーヌ……。)が出会ったことで、ほんの少しだけ、それぞれが趣を変える詩集だ。


天使が詩を朗読するでもない。詩が天使に隠された解釈を囁くでもない。ただ、無垢なものと無垢なものが触れ、戯れているような、そんな感触がある。


第三者であるぼくは、絵に心奪われ、詩に陶酔し、その中で、かすかな声を聞く。なにを話しているのかは、わからない。けれど、声の調子はわかる。柔らかく、滑らかな声。


詩は、決して天使ではない。天使を書いていないから。けれど、天使に触れたつかの間、悲しさがわずかに、剥がれる瞬間があって。悲しさが消えることは、ないのだけど。


柔らかく、滑らかな声は、天使に出会ったことで、少しだけ、違った姿を見せる。美しい詩が、より美しくなる。それは、天使も。それを奇跡と、ぼくは思う。


(余談。天使ではないにせよ、クレーの絵からヒントをもらい、書かれた小説を読んだことがある。(吉行淳之介『夢の車輪―パウル・クレーと十二の幻想 掌篇小説集』1983年)掌編の手ざわりは、それぞれで違っていたけれど、小説を目で追っている最中、モチーフになった絵の視線を感じた。むずがゆいような、心地いいような、よくわからない感じ。)


天使はなにも喋らない。詩はなにも描かない。それらが出来るように、補う必要もない。だからこそ、その戯れは、見ていて楽しい。


天使は詩を必要としていなかったし、詩も天使を必要としていなかった。けれど、出会ったことで、喜びが芽生えた。この詩集は、静かな幸福に満ちている。

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パウル・クレーと愛の詩集(2007年)(絶版)

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