孤の人(黄色い雨/フリオ・リャマサーレス)

どのようなものも以前と同じではない、思い出といっても、しょせん思い出のそのものの震える反映でしかないのだ、(後略)

――p48より引用

廃村。で、朽ちていく老人。とは、似ても似つかぬ環境で生きるぼく。と、書いてみたけれど。本当に、そうだろうか。


一人、また一人(もしくは、一家族ごと)いなくなっていく村。自分の子どもさえ。そして、夫である老人を残し、押しつぶされる思いに押しつぶされ、首をくくった妻も。


みな、失ってしまった老人。に、ところどころ、とても親しく感じるのは、なぜだろう。


廃村と老人。どんな結末になるのか、想像するまでもない。(し、冒頭ですでにわかっている。)


ぼくが生活する場所はしんではいない。し、どんな関係性にせよ、辺りにどんな人もいるのだし、ぼくはまだ(たぶん)若い方。少なくとも、老人じゃない。


なので、ぼくが老人に共感するのは、ただの錯覚か、もしくは、愚考の末の結論なのかもしれない。


けれどぼくは、この老人のように、辺りに誰もいない、朽ちかけた家で朽ちかけている自分を想像するのを止められない。


これは、そもそも共感なんだろうか。ぼくは、この物語に囚われてしまったんだろうか。


死は、語り尽くすことができない。それぞれの哲学があって、それぞれの思想がある。恐れる人もいるし、侮る人もいる。老人は、死そのものは恐れていない。(とは、本人の弁だ。)


あるときの激情も、凪いだときの感情も、老人は淡々と語る。老人が老人である以上、死はそばにあるし、救いのない廃村にいることで、死はさらに膝の上に乗る。


緻密に、濃密に記載された老人の孤独。老人がなにかを語る度、自分がどうしようもない孤独に襲われた瞬間を思い出した。きっと、そのことばが的を得ていたんだと思う。孤独が気を狂わせること。避けたくとも、抗いようのない孤独があること。


自分で使いながら、「共感」ということばに違和感があったけど。もし違うとすれば、「共鳴」だろうか。上手く、説明できないけど。

私はまもなくこの世からいなくなり、人から忘れ去られるだろうが、その中に安らぎを見出している。

――p88より引用

この世からいなくなること。人から忘れ去られること。老人に共鳴するぼくは、老人と同じ最期を辿ることになるだろうか。


ならない、とは言いきれないにせよ。でも、ならないと思う。いつか、どこかにせよ。誰にも見捨てられた場所に、身を置かない限り。


けれど、どうなることになっても、恐れの中に安らぎを見出せれば。老人に共鳴したぼくは、そう思った。

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黄色い雨 - フリオ・リャマサーレス(2005年)

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