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悲恋だけが永遠の美しさを保つ

私は、有給休暇消化期間の最後に、オーストラリアのシドニーへ来ている。行きの飛行機では、映画「ローマの休日」を見た。伝説の美人女優、オードリー・ヘップバーン演じる王女アンが、お忍びで1日だけの恋愛を新聞記者とする、という話だ。王女は、新聞記者と別れたくないが、王女としての役目を果たすために別れる。

恋愛し、結婚に至ると、待っているのは現実だ。子供の送り迎えや、家事などをこなしながら、仕事をするのだ。その毎日に疲れ果てているのが最近の夫婦というものだろう。

悲恋の場合は、違う。おそらく、王女も、新聞記者も、永遠に美しい想い出として、たった1日だけの恋を心に大切にしまいっておくだろう。その想い出は、永遠に美しいまま、凍結されるのだ。

私は、あいにく、社会人になるまでは、女性と美しい恋愛をしたことはなかった。

イブリースさんが、社会人になってからは本当の意味での友情を結ぶのは難しいと書いていた。恋愛もそうだと思う。どうしても、結婚という現実を考慮し、男女ともに打算が働くのだ。

もちろん、私は妻と子供を大切にする。裏切るつもりはない。だが、大学受験もキャリアもそれなりに成功することができた今、美しい恋愛だけができなかったのは残念だ。

私が幼稚なのだろう。ロマンスよりも、現実を生きていくことのほうが、大切に決まっている。

私は、大人としては未成熟なのだろう。ロマンスに意味がないことを知りながらも、ロマンスに憧れる。だが、大人になりきれていないからこそ、このような文章を書けるのだ(もちろん、プロの小説家ほどの筆力はないが)。

太宰治も、社会人としては失格だったであろう。何人もの女性を犠牲にした。だが、「この人とならば、人生を終わりにしても構わない」と考えた女性がいたのだ。太宰治はどうかわからないが、女性がそのように考えたのは、まさに命をかけて美しい恋愛をしたのだと思う。もちろん、倫理的には全く許されるものではないが。

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