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彼女が電話に出ない

 彼女から連絡がない。
 付き合い始めてまだ2ヶ月。いつもの振られサイクルよりずっと短くて、思い当たることもないせいで和幸は焦った。
 電話をするけれど、出ない。
 メールを送ってみたが返信は来なかった。

(最後のデートで何かやらかしたか?)
 記憶を探るが、思い当たる節はなかった。
 いつものように白のBMWで迎えに行き、郊外へ飛ばして素朴なレストランで食事をし、手近なホテルで3時間ほど過ごして帰ってきただけだ。
 帰り際の彼女の表情にも、特に変化はなかった。
(おかしいな。忙しいだけなんだろうか)
 目の前で診察台に座り、目を閉じて口をあーんと開けている患者を見ながら、脳裏には彼女の肢体が浮かんでいる。
(やっと久しぶりに見つけた相手なのに)
 歯に穴を開けるための器具を手に取り、スイッチを踏むと患者の頬がピクリと引きつった。
 患者は60代の男性だが、こういうものへの恐怖は年齢や性別には関係がない。
(今夜、家まで行ってみよう)
 終わりにするならするで、はっきり決めておきたかった。ズルズルして良いことは何もないから。
 治療に集中できなくても、和幸の手は長年の経験で鮮やかに動く。小さな虫歯はあっという間に埋められて、次の患者がまたあーんと口を開けて待っていた。
 あと3時間で診療時間が終わる。その頃には彼女も家に着いているだろう。

 マスクを捨てて白衣を着替え、自慢のBMW 320dに乗り込んでもう一度だけ電話をかける。やはり出ない。
〈今から行くよ。少し話がしたい〉
 そうメールで送ってエンジンをかけた。
 つい2ヶ月前に彼女が座っていた助手席には、手土産のつもりのクッキーがちょこんと乗っかっている。
〈家にはいません〉
 ピロリン、と着信音がするとともに、久しぶりの返信が来た。画面にメールのタイトルが表示されている。
 これで決まりだ。
 彼女は別れたがっている。
 読みたくないがメールを開くと、本文は一行も書かれていなかった。
〈じゃあ電話でいいよ。少し話せる?〉
 そう送ると、少し間があったが、〈はい〉と返って来たので、すぐに電話を入れる。
「もしもし」
『……はい』
「久しぶりだね。どうしてた?」
『仕事が忙しくて』
「そう」
 沈黙。
「今どこ?」
 沈黙。
「もう別れたいの?」
 ダイレクトに聞いてみる。
『ええ』
(即答かよ)
 声の冷たさが耳の奥に触った。
「…どうして?俺、何かしたっけ?」
 納得できずに、つい聞いてしまうと、彼女はたっぷり10秒黙っていた。
『………別れてないでしょ?奥さんと』
 今度は和幸が沈黙する番だった。
『確かに、別れたとは言ってなかったわね。もう一緒に暮らしてないって言ったのよ、あなた』
 そう。和幸は嘘はついてない。ミスリードを誘い、まんまと騙された彼女に乗っかった。
 いつものやり方だった。でもバレた理由が分からない。
「どうして」
 口ごもる和幸に、彼女は意外な答えを告げた。
『パンツの柄を見て気づいたの。アンパンマンだったわよね』
 2ヶ月前のデートの日のことを言っているのだと、とっさには気づかなかった。いつどんなパンツを履いていたのかなんて、覚えてるわけがない。
 これからまさに情事を始めようとしていた時に、彼女の目はあんな小さなアンパンマンの柄を見ていたのか!
「え、なに、それでなんで別れてないって分かるの」
 クールな歯科医の皮が、ずるっと脱げた。
『女性とのデートであのパンツを履ける、その感覚の持ち方かしらね』
「そんな…」
 彼女の沈黙が、鈍感、と和幸を責めていた。
『奥さんはまだ何も気づいてないのね』
 厳しい追求に押し黙る。
『不倫をする気はないの。私の連絡先は消してちょうだい』
 そう言うと、和幸の返事を待たずに電話は切られた。

 なんともしまりのない話だ。
 既婚者だとバレた理由がパンツの柄だなんて。
 彼女のあまりの鋭さに、言い訳する余裕もなかった。
(怖い女だ。早めに別れて正解だな)
 強がりを呟きながらも、妻との仲が冷えて下半身のモヤモヤを解消できなくなってから始めた浮気癖に、ナイフを突きつけられたような鋭い痛みが残る。
 エンジンをふかして環七をしばらく流し続けたが、虚しくなって家の方向へハンドルを切った。
(ああそうだ、家に電話しておかないと)
 そろそろ9時。5歳の娘を、きっと妻が寝かしつけてる。予定が変わった時は帰宅前に連絡を入れるのが、冷え切った仲の夫婦のルールだ。そうしないと妻の機嫌が悪くなる。
「ヘイSiri」
 前方から目を動かさず、iPhoneに話しかける。「自宅に電話して」
 ハイ、自宅に電話します。Siriが答える。
 助手席でコロコロ転がっているクッキーは娘にやればいい。きっと喜ぶだろう。
 そんなことを考えながらコール音を聞いている。が、出ない。
(あれ?)
 赤信号で止まって、今度は妻の携帯にかけ直してみた。
 やはり出ない。
〈今から帰る〉とメールしてみたが、それに返事もない。
(なんなんだよ、今日は)
 さすがに機嫌が悪くなり、いつもより少しスピードを上げて乱暴な走りで家に着いた。
 どうしたことか、明かりがどこにも点っていない。
(もう寝たのか?防犯灯くらい点けといてくれよまったく)
 腹の中でグチたが、それでも二人を起こさないようそっと鍵を開けて入り、リビングの電気を点けた。奇妙な静けさがガランと広がっている。
(なんだ?)
 リビングのローテーブルに、何かが置かれているのに気づいて近づいた。
 パンツだ。
 手に取ると、まさにそれは、既婚者であることがバレたアンパンマン柄のパンツ。
(なんだ?どういうことだ?なんで今日このタイミングで、これがここに置かれてる?)
 パニックになった和幸は気づかなかった。
 あの日履いて行ったパンツのアンパンマンのマントの色と、今持っているパンツのマントの色がすり替わっていることに。

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