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【読書】「ちゃんとする」の正体

こんにちは。
今回は、読書をして考えたことについて書いてみたいと思います。

先日、野本響子さんの「東南アジア式『まあいっか』で楽に生きる本」を読みました。
この本は、マレーシアに家族で移住して10年の野本さんが、日本とマレーシアを比べながら、楽に生きるための考え方を紹介されています。

この本の中で、日本人はよく「ちゃんとする」ことを人に求めるという内容が書かれていました。
たしかに、私も子供に「ちゃんとして」と言うことがあります。
でも、この「ちゃんとする」とは、どういうことなのか、また、どうしてそれが必要なのか、私はこれまであまり深く考えたことがありませんでした。

でも、この本を読んでから「ちゃんとする」について考えたことで、子育てにおいても仕事においても気を張る必要はないのだ、もっと楽に生きていいのだと思えるようになりました。

「ちゃんとする」とはどういうこと?

私が子供に対して「ちゃんとして」と言うのは、外出先で子供が騒いだ時や、保育園の行事の時などにじっとしていないような時です。
外出先で子供が騒いでいる時は「周りのみんなはそんな風に騒いでいないでしょ。みんなと同じようにして。」という思いが隠れています。
保育園の行事の時も「他の友達は座って先生の話を聞いているでしょ。みんなと同じように先生の話を聞いて。」という思いが隠れています。

これはどちらも、自分の考える常識を、子供にも求めているのだということが分かります。
ただ、この「常識」というのは、時代によっても、国によっても、人によっても解釈が異なる場合があります。
私は「ちゃんとする」という言葉を「周りのみんなと同じようにする」という意味で使っていますが、実は「ちゃんとする」という言葉の解釈も、人によって異なるものなのではないでしょうか。

「ちゃんとする」必要はあるのか?

では、なぜ「周りのみんなと同じようにする」必要があるのでしょうか。
それは、おそらく私自身に「周りと違うことをしていると、みんなに迷惑をかける」という意識があるからなのだと思います。
でも、それは本当に周りの人のためなのでしょうか。
実際にはそうではなく、自分が「ちゃんとしていない」と思われるのが嫌だからなのです。
子供が「ちゃんとしていない」=親が「ちゃんとしていない」と思われるのではないか、という風に私は考えているのです。
周りの人のためでも、子供のためでもなく、自分自身のためであると言えます。

では、逆に「ちゃんとしていない」とどうなるのでしょうか。

この本の中にもありましたが、日本では特に、みんな同じであることが求められがちです。
でも、人には個性があって当然で、同じ人はいません。
ということは「みんな同じ」を求めるとなると、何か基準を作り、みんなかその基準に合わせることになります。
その基準が、常識と呼ばれるものなのでしょう。
そしてその基準から外れてしまうと「ちゃんとしていない」とみなされてしまい、人から批判されたり、場合によっては怒られたりしてしまいます。
しかし先ほども書きましたが、常識は時代によっても、国によっても、人によっても異なるような不安定なものです。
本当に、その「常識」にみんなが合わせる必要があるのでしょうか。

この本の中で、マレーシアは多民族国家なので、自分の常識を他人に当てはめることができないことが多いため、人の行動に対して意見する人が少ないというようなことが書かれていました。

Mind your own business.」=自分のやるべきことに集中しよう。

ということだそうです。
そのような環境では、常識という言葉さえ意味がないのではないかと私は思いました。
人からジャッジされない、そして自分も人をジャッジしない世界を想像してみると、今よりずいぶん生きやすくなるだろうと感じました。

この本から学んだこと

私はこれまで、自分は常識がある人間だと思い込んで生きてきましたが、この本を読んで「ちゃんとする」の正体について考えてからは、自分の思う「常識」に惑わされてはいけないのだと思うようになりました。
かと言って、自分と人を比べたり、人の「常識」を理解する必要もなく、ただ「自分のことに集中」して生きていけばいいのだと学びました。
子供に対しても同じで、必要なアドバイスはするけれど、自分の常識を押し付けるようなことはせず、ある程度子供にお任せして、自分でどうするか考えてもらうことが大事だと感じました。

簡単にできることではないと思いますが、まずは、自分で人をジャッジすることをやめてみようと思います。



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