男性も女性も苦しめる過剰な“男らしさ”

日本では、なかなかジェンダーギャップが埋まらないといいます。
いわゆるジェンダーギャップ指数などの統計にとどまらず、私たちが生活する実感としても、この国の大枠はまだまだ“男性社会”なのだと感じます。

今でも地方に行ったりすると、あからさまな“男尊女卑”思想に出くわすこともあります。
さすがにひと昔前のような露骨な言動は少ないにせよ、一定年齢以上の世代の保守的な人たちの中では、男性と女性とはともに社会を支え合うイコールな存在なのだという意識は、本音のところではまだまだ希薄なのではないかと思います。



一方で、今の社会の現状を見てみると、「男らしさ」「女らしさ」をめぐる構図は、必ずしも平板なものではないと気づかされます。

日本はまだまだジェンダーギャップがひどい。だから女性は差別されている。社会から強固な「女らしさ」を押し付けられて、日々苦しんでいる女性が多い。

こんなイメージが一般的かもしれません。ある面では、今の日本の現状なのだとは思います。

でも、ここで少し冷静に考えてみたいことがあります。



そう、女性たちが「女らしさ」を押し付けられているという仕組みが、ジェンダーをめぐる問題の本質なのだろうか、という点です。

そういう面はあると思いますが、私は本質は少し違うのではないかと考えています。

たしかに、社会において「女らしさ」についての同調圧力や強迫観念は根強いです。

でも、それは「男らしさ」についても同じです。

男性もまた、「男らしさ」を求められ、その期待に沿うように、生きていくことから、そう簡単には自由になれない。



比べるものではないでしょうが、「男らしさ」と「女らしさ」とでは、どちらの規範やバイアスの方が強いのでしょうか。

いちがいに答えはでないとはいえ、少なくとも昨今のダイバーシティやジェンダーフリーの潮流の中では、「男らしさ」の規範の方が、ある意味「女らしさ」以上により強固なように感じます。

女性活躍推進の中で、「女のくせに」とは、そうそう言えない世の中ですが、「男のくせに」という偏見や圧力は、まだまだ多いのかもしれません。

ドレスコードにしても、例えば学校の制服において、女子がスラックスをはく流れはできても、男子はスカートをはくことは想定されないことがほとんどだという点からすると、より「男らしさ」へのこだわりの方が根深いように思います。



男性がホモソーシャルな社会を形成して社会を切り盛りする仕組みを作ると、異質な存在である女性は事実上排除され、そう簡単にはコミュニティには参入できず、ましてや重き役割を担うことは困難だということは、今の社会で随所で起こっていることです。

「男らしさ」が過剰になったり、濃度が増すことでできた集団原理によって、女性たちが差別され、抑圧されてきたというのは、疑うことのない事実だと思います。

では、そうした行き過ぎた「男らしさ」は、女性たちのみを傷つけ、権利を奪い続け、男性たちはその利益や効果を一方的に受け続けてきたかというと、この点は評価が分かれるのかもしれません。



「男らしさ」は、あくまで「女らしさ」との相関関係において成り立っているからです。

箱根駅伝で監督が選手に「男だろ!」と声をかけるのは、その適否はともかく、世の中に「女らしさ」を求められる女性が存在するからこそ成立する構図であり、その対称において「男らしさ」(=女ではない)ことが求められるのです。

この点は、俯瞰してとらえると、男性と女性をめぐる性別役割規範だということになります。

社会においてある種の役割規範があるのは理解できますし、一定の合理性があったことは事実だと思いますが、それがあまりにも強固に固定化されすぎ、個性をも没却させるほどの強制力を持ってしまうと、合理性よりも弊害の方がはるかに大きくなってしまうのだと思います。



「男らしさ」も「女らしさ」もあまりに過剰になってしまうと弊害が大きくなるし、それぞれ性別役割という規範によって根をおろしてきたことは、まったく同じです。

でもなぜに、今の時代において、「男らしさ」の方が「女らしさ」以上に頑なな力を持っているかといえば、それは「男らしさ」をめぐる過去の“成功体験”に裏打ちされているといえる気がします。

性別役割規範の基本は、夫=仕事、妻=家庭というモデルです。この典型的なスタイルは、昭和の時代においてはおおいに効果を発揮しました。

家事や育児やその他の家庭責任のほぼいっさいを妻に丸投げすることで、多くの夫たちは家庭をかえりみることなくひたすらに働き続け、戦後日本はおおいなる経済発展を成し遂げました。

これは、まさに歴史に残る“成功体験”でした。



今は、まるでそんな時代ではありません。

「女らしさ」は、良くも悪くも変貌しつつあり、本質は変わらぬといえども、女性が相応に男性から学びあやかることは社会的にも寛容に受け止められています。

これは、寛容というよりは、過去の“成功体験”を忘れらぬ多くの男性たちの脳裏には、「しょせんマイノリティによるマジョリティの真似ごと」といった差別観念があるのかもしれません。

一方で、ほとんどの人が結婚して、子どもをつくるとは限らず、男性だから仕事一本の人生で、女性だから家庭中心とは限らない時代になったにもかかわらず、“成功体験”の呪縛から解放されない男性たちは、いまだ昭和モデルを生きているかのようです。



今の時代において、過剰な「男らしさ」にこだわりすぎることは、女性たちを阻害し抑圧し権利を奪うだけでなく、男性たちを苦しめ自由を奪い心身をむしばむことを知るべきです。

このことに身をもってさらされつつある若い男性たちは、これからへの強い危機感を覚えつつありますが、全体としては、男性が「男らしさ」に疑問を持つ余地はないという頑なな思想に縛られているというのが、今の日本の残念なのだと思います。



必ずしも悪意のある男性が女性蔑視をはたらいて女性活躍をはばんでいるという確信犯的な例はそれほど多いわけではなく、そして、必ずしも今どきの若い男性はめぐまれすぎて甘えているから、かつてのような典型的な「男らしさ」を持ちわせていないという短絡的な理解が適当とは限らない事実に、私たちはもっともっと目を見開くべきです。

男性が男性であることに誇りを持つのは素晴らしいことですが、それが男性の人生には「男らしさ」しかなく、女性から学んだりあやかったりするのは邪道だというポリシーが世に蔓延してしまうと、もはや「男らしさ」の加害者性は女性はもちろん男性をも強力にむしばみはじめます。

行き過ぎた「男らしさ」の押し付けは、結局はこの社会において“誰も得をしない負のスパイラル”を招く。こうした認識をしっかりと共有した上で、これからの時代の生き方や働き方をいま一度問い直し、タブーなく前向きに向き合っていきたいものです。

学生時代に初めて時事についてコラムを書き、現在のジェンダー、男らしさ・女らしさ、ファッションなどのテーマについて、キャリア、法律、社会、文化、歴史などの視点から、週一ペースで気軽に執筆しています。キャリコンやライターとしても活動中。よろしければサポートをお願いします。