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芥川龍之介『秋』の続きを書いてみた。

※芥川龍之介『秋』の続きを創作しました。青空文庫なりで原作をお読みの上、下記の小説をお読み頂けるとより一層楽しめること請け合いです。


 信子が照子の自殺の知らせを受けたのは、その翌年の秋の晩のことだった。照子の死を告げる電話の向こうの俊吉の声に、いつものひょうきんさはなかった。翌日、信子は一年振りに夫と東京の地に足を運んだ。

 朝からずっと、秋特有の冷たい雨がしとしとと降り続いていたその日、照子と俊吉の思い出が詰まったその家で、葬儀はしやめかに執り行われた。近親者のみで滞りなく進み、母、俊吉、夫は勿論のこと、信子も例に漏れることなく、参列者全員が早過ぎる照子の死を嘆き悲しんだ。

「鶏も死んでいたよ」

 葬儀の後、縁側で未だに止まない雨を呆然と見つめる信子に、俊吉が声をかけた。

「照子が殺したのだと思う」

 俊吉は信子の隣に並んだ。肩を並べながら雨の降る庭を眺める。雨の音だけが静かに二人を包んでいた。同じ雨を見つめているのに、お互いが何に思いを馳せているのか全くわからない。しかし、二人とも照子のことに違いなかった。

「……照さんは、どうやって、死んだの?」

 二人の間に訪れた沈黙を先に破ったのは信子だった。俊吉は巻煙草の煙を溜息のように吐いた。

「風呂場で、手首を、切って。僕が家に帰る頃には血の海だった」

 俊吉は雨戸を開けた。煙が夜の闇に吸い込まれる代わりに、冷気が部屋の中に入って来る。その冷気は、泣き腫らして熱くなった信子の身体を少しずつ冷やしていった。

「……どうして? どうして自殺なんか?」

 信子は真っ直ぐ俊吉の目を見つめた。彼は冷たい雨の降る向こうに目をやりながら逡巡し、漸く口を開いた。

「……君の方が、よく知っているんじゃないのかい?」

 信子にとって思ってもみない返答だった。

「まさか、私、去年お邪魔したあの日から、照子と連絡をとっていなくってよ」

「照子の様子がおかしくなったのは、昨年、君が帰ってからすぐのことだよ。僕が家に帰った時には、もう照子は抜け殻のようだったんだ。僕がいない間に何があったんだい? 仲の良い姉妹が一年もの間連絡を取り合っていないなんて、それこそおかしいじゃないか」

 責めるような俊吉の視線に、信子は目を逸らした。俊吉は、今度こそ溜息を吐きながら、黒い背広の内ポケットから、一枚の封筒を取り出し、信子に差し出した。おずおずと受け取ると、封筒には未だ少女の面影を残した字で「御姉様へ」とだけ書いてあった。照子が信子へ宛てた手紙だとすぐに理解した。

「照子の部屋の机に置いてあった。きっと遺書の類だと思うが、勿論、僕は読んでいない。君に宛てたものだからね」

 俊吉は信子に背を向けて居間へと歩き出した。

「どうして?」

 もう一度、俊吉の背中に問いかけた。彼が足を止める。

「俊さんはどうして私ばかりをお責めになるの? 俊さんだって、あの日に起こったことを照子にお話になってしまったんじゃなくって?」

「僕たちは、あの日お互いの気持ちを確かめ合った。そして、お互いに自分の道を歩くことを決めた。そこに一体、どんな危険が孕んでいるというのだい?」

 俊吉は振り返らなかった。冷たい風が、二人の間を通り抜ける。この時信子は、昨年の秋、妹に感じたのと同様に、俊吉と永久に他人になったような心持ちがしたのであった。


 翌日、信子は夫と共に大阪方面へ向かう電車へ乗り込んだ。信子は、昨日とは打って変わって晴れ晴れとした空を車窓から眺めながら、昨年の秋のことを思い返していた。

 昨年の、秋――、照子の家から大阪へ帰る時。信子は幌俥の中から俊吉を見つけ、俥を止めて声をかけるか、このまま行き違うか迷った挙句、俥を止めて、俊吉に声をかけたのだった。

 そこで信子は、胸の内に秘めていた思いを、泣きながら全て告げてしまったのだ。学生時代、本当は俊吉を好きだったこと。でも照子も俊吉を好きだと知って、身を引いてしまったこと。そして昨日、久方ぶりに俊吉と話をして、俊吉への思いが再燃してしまったこと。夫との喧嘩も増えてきた自分とは対照的に、夫と仲睦まじく暮らしている妹を恨めしく思ってしまったことまでは流石に口にしなかったが。

 俊吉は、信子を優しく抱きしめながら、最後まで話を聞いてくれた。そして彼も、自身の思いを打ち明けたのだ。学生時代、自分も信子が好きだったということ。だから、信子が結婚して大坂へ行くと聞いて驚いたこと。そして、照子も自分を好きだと分かり、全てに合点がいったこと……。

「しかし、昔からの二人の思いが通じ合ったことは嬉しいが、それはもう過去のことだ。僕は僕を一生懸命愛してくれる照子が好きだ」と、俊吉は言った。信子もそれに異論はなかった。もうお互いに生涯を共にすべき伴侶がいるのだから、この思いは封印しなければいけない。二人はこの思いを過去のものとして封印することを約束した。

 しかし、照子は死んだ。

 信子は雲一つない青空を不可解な顔で見つめた。照子は、なぜ自殺をしたのだろうか。昨夜の俊吉の口振りからして、照子には二人で真実を確かめ合ったことを話していないらしかった。照子は、そのことを気に病んだのではないはずだ。それでは、彼女が気を病んだ真の理由は? 俊吉の言う通り、昨年の秋、照子の家を出る前の、あの一件が照子を病ませてしまったのか?

 信子は、隣で眠りこけている夫を余所に、鞄の中からそっと、照子の最期の手紙を取り出し、意を決して封を切った。

「親愛なる御姉様。御姉様がこの手紙を呼んでいる頃、私はきっとこの世にはいないのだと思います。若く健康な身体を持ちながら、御母様と御姉様を残して先立つこの不孝者をお許し下さい。自分がとても悪いことをしていると云うのは、勿論承知の上で御座います。ですが、もうこの様にして生きていることが、死んでしまいたくなるくらいに苦しいのです。

 昨年の秋、御姉様が私に向かって残酷な言葉を投げかけたあの日のことを覚えていますか? 御姉様は私の発作が治まると、俊さんを待たずに帰ってしまわれましたね。私は玄関まで御姉様をお見送りに行きました。そう、その時。御姉様が自身で開けた扉がゆっくりと閉まる様を見た時。私と御姉様の関係も永久に閉ざされてゆくような心持ちが私を襲いました。

 大好きな御姉様と心も離れてしまうなんて、そんなのは嫌。すぐに御姉様を追いかけました。今思えば、そうするべきではなかったのですね。私は、御姉様が幌俥から降りて俊さんと抱き合っている所を見てしまいました。往来の激しい町中で抱き合う二人は、異国の映画に出てくる一場面のようにお綺麗でした。

 私はうっとりとそれを眺めながら、足場がガラガラと音を立てて崩れていくのを感じました。やっぱり、と思いました。やっぱり御姉様はまだ俊さんのことが好きだった。そして俊さんも、学生時代の頃と同じように、御姉様のことを。そう思わずにはいられませんでした。

 その日から、俊さんの愛情を疑うようになってしまいました。俊さんは今まで通り優しく接してくれるけれど、それが嘘のように思えて仕方がないのです。御姉様との仲を怪しまれないように、私に対して偽装しているようにしか思えませんでした。御姉様も同様です。御姉様との文通も止み(先に文通を止めたのは御姉様でしたね)、実はこっそり、御姉様と俊さんが文通をしているのではないか、そしてその手紙の中で密会の約束でも取り付けているのではないかと、毎日のように疑っておりました。

 御姉様、どうして泣き崩れるまでに恋焦がれていた俊さんを譲ったのですか。私は疑いの海に身を投じながら、どうしてもこの謎を解くことが出来ませんでした。でも、私はついにやっと、この謎を解くことが出来たのです。

 御姉様が私に俊さんを譲ったのは、自叙伝を書く為ではありませんか。

 御姉様は、「夫を持つ身でありながら、妹の夫に抱いた恋心を忘れられない不貞の罪」を自叙伝で懺悔しようと、心の何処かで考えていたのではないのですか。女性の書く自叙伝は、懺悔からしか書くことが出来ない、と昔俊さんに教わったことがあります。私の知る限り品行方正な御姉様に、自叙伝に書くことが出来るような罪はないと信じております。だから私に俊さんを譲ることで、自ら罪を作ったのではないのですか。

 私には学がないので、これが本当かどうかはわかりません。憶測に過ぎないとも思っています。しかし、疑惑の海に呑み込まれてしまってから、どうしても御姉様のことを信じることが出来なくなってしまったのです。

 この答えに辿り着いた時、足にとてつもなく重い重りを付けられて、仄暗い海の底へ沈んでいくような心持ちになりました。「きっと骨を折るから、俊さんの所へ行け」と、「照さんさえ幸福なら、何より有難いと思っている」と仰った御姉様が、そんなことを企んでいたなんて。御姉様は、御自身の自叙伝を書く為にに私と俊さんを、そして御兄様を利用したのですよ。

 私は、こんな大きな悲しみを耐え抜くことなんて出来ません。だから、藻掻くことを止めました。このまま生きて、耐えがたい真実を受け止めるより、死ぬことを選んだのです。

 御姉様、先立つ不孝をお許し下さい。私の考えが全て憶測に過ぎなかったとしても、死ぬことに後悔等しておりません。疑念に染まり切ってしまったこの身体で、これから御姉様と俊さんと共に生きて行くことは不可能でしょうから。

 どうぞ御姉様、私はもう死にゆきますので、どうか照子の死さえも御自身の自叙伝の材料にでもお使い下さいませ。さようなら、御姉様。御姉様が自叙伝に使う為に罪を重ね続けたとしても、照子は御姉様の幸福を空の上からお祈り申し上げております」

信子は、照子の遺書を読み終えると、再び車窓から晴れ渡る青空を振り仰いだ。信子の気持ちとは裏腹な青空だった。妹に見抜かれていた信子の心の闇は、照子の死によって引き裂かれ、どろどろとどす黒いものを溢れ返らせていた。

「秋――」


*本編はこれで終了ですが、ご購入頂けますと、さらにひさとみえぬによるあとがきが読めます。投げ銭形式ですので、面白かったなぁというお金に余裕のある方はぜひ投げて頂ければ幸いでございます。

お読み頂きありがとうございました!


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