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人間失格/太宰治

自分たちはその時、喜劇名詞、悲劇名詞の当てっこをはじめました。
「しかし、君、薬や医者はね、あれで案外、コメ(喜劇コメディの略)なんだぜ。死は?」
「コメ。牧師も和尚もしかりじゃね。」
「大出来。そうして、生はトラ(悲劇トラジディの略)だなあ。」
「ちがう。それも、コメ。」

第三の手記

生は悲劇という葉蔵、喜劇と言いきる堀木。
言葉遊びの二人の対比が、その後の人生の対比でもある。
葉蔵は不幸をいちいち丁寧に掬い上げるが、幸せは簡単に取りこぼす。

つまり、自分はその時、生まれてはじめて、ほんものの都会の与太者を見たのでした。それは、自分と形は違っていても、やはり、この世の人間の営みから完全に遊離してしまって、戸惑いしている点においてだけは、たしかに同類なのでした。

第二の手記

葉蔵が堀木の自宅を訪問した際、年老いた母が薄いおしるこでもてなし、恥ずかしがるでも虚勢を張るでもなく、ありがたいと感謝して食べる堀木。
これまでの都会派遊び人イメージとは違う、家の内と外を使い分けている堀木に葉蔵は裏切りを感じる。
同類ではなかった。
正しく真っ当に人間社会を生きている。

勝手に裏切られたり幻滅したりあきらめたり。
誰もなにも裏切っていない。
みな多かれ少なかれその中でバランスをとって社会を営んでいるだけなのに。

考えてみると、堀木は、これまで自分との附き合いにおいて何一つ失ってはいなかったのです。

第三の手記

自分一人がこんなにも苦しんでいるのに、世の中の大半の人々はごく簡単に幸せに暮らしている。
当たり前の風景の中になぜ自分がいないのか。

『傲慢と善良』の一場面。
休日のショッピングモールによくある家族連れの風景。
安物のキャップを被ったずんぐりとした体型の父親。
髪をキレイにまとめた同級生にもいそうなごく普通の母親。
キンキン声をあげる子供。
こんな些細な幸せでいいといっているのに、高望みしてるわけではないのに、なぜあの風景の中に自分はいないのか。
傲慢が滲んでいる。

あいかわらず『傲慢と善良』のアンテナがビンビン立つ。

まわりの人の要求に全て応えてお道化どうけに徹してきた葉蔵は、善良でもあった。

「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも……神様みたいないい子でした」

第三の手記

こちらはポップで楽しい太宰治。


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