私が卒業アルバムを二度と開けない理由
先日noteで紹介した OTEMOTO [オ・テモト]の記事 「上半身裸の騎馬戦という『地獄』に苦しんだ僕は、教師になった」に、さらに多くの反響をいただいています。
記事の感想に加え、学生時代に経験した騎馬戦や組体操のことや、男子が上半身裸になることについて、さまざまな意見がみられます。
上半身裸になるのは嫌だったという人。いや、自分は嫌だとは思わなかったという人。
SNS上で可視化されている範囲内の意見について、何が正しいとか正しくないとか、どちらが多いとか少ないとか、そういうことよりも大事にしたいことがあります。
記事を読んでくださった方が、学生時代の「あのときの自分の感情」を思い出したのだとしたら、それは大人として子どもの声を聴くという行為と同じなのではないか、と思うのです。
あのときどんな感情だったのか
私が高校生だったときは、校則、制服、時間割、冷暖房、行事について、先生から生徒の意見を聞かれたり、議論の場がもたれたりしたことがありませんでした。
生徒にできるのは、せいぜい多数決。過半数の生徒が賛成すれば少数派は黙って従うだけでした。
多数決で決まったことに対して「嫌だ」と反論するのはとても勇気がいります。嫌だという感情を引きずったまま取り組むのもむなしいものです。
あのとき自分はどんな感情だったんだろう。そもそも発露できるような感情をもっていたんだろうか。
記憶をたぐりよせようとしていると、とても嫌だったことを思い出してしまいました。
ブルマーが嫌だと言えなかった
高校を卒業してしばらくして、卒業アルバムを受け取ったときのことです。
運動会の特集ページがありました。見開きの中央に、自分の写真が大きく掲載されていました。
私の高校の女子の体操着はブルマーでした。その写真は綱引きの種目で、私が腰をかがめて足を開いて踏ん張っているシーンが、真正面の下のアングルから撮影されていました。
私はすぐに卒業アルバムを閉じて、それから一度も開いていません。
どの写真が掲載されるかを被写体である生徒は事前に確認できません。誰がどういう意図であの写真を選んだのか知りたくはありましたが、知ってどうするのでしょう。すべての卒業生が高値で購入した装丁済のアルバムを差し替えてもらえるわけもないと、ただひたすら見なかったことにしてきたのでした。
ブルマーは嫌です。ブルマーで綱引きをするのはもっと嫌です。ブルマー姿の写真を卒業アルバムに載せないでほしかったです。
あのときの私はそう言うことができませんでした。もう取り返しはつきません。
ただ、大人になった私は「あのとき嫌だったんだよね」と私の声を聴くことができます。そして、今の子どもたちの声を実際に聴いて、行動することもできます。
かつて子どもだった大人にできること
繰り返しになりますが、8月10日に創刊したウェブメディア OTEMOTO [オ・テモト]がめざしているのは、「人もモノも大切にされる社会」「自分らしさを自由に表現できる社会」です。
情報が「資産」として残り、生きづらさを感じる誰かの希望になったり、世界をよりよく変えるきっかけになったりすることを目指しています。
かつて子どもだった私たち大人が、これから子どもたちに渡したいのはどんな未来なのか。読者のみなさまとともに、手もとから考えていきます。
夏休みが明けると、秋の体育祭や運動会がある学校もあります。
騎馬戦について、大人たちが子どものころの感情や経験にもとづいて声をあげたことは、これからの子どもたちが本当に楽しめる行事づくりにつながるかもしれません。
同じように、体育祭や行事、校則、学校のこれからのあり方についても考えていきたいと思っています。ぜひアンケートでご意見を寄せていただけると幸いです。
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