命の値段

例えば子育てにおける家庭内労働っていうのは贈与に次ぐ贈与で、それが行き過ぎたときにストレスになる、っていうわけだ。

労働というものには常に贈与というものがどこか付随するだろう。ある仕事を完遂するには、ここまでということで成らないものはある。だがそこに過重に期待することは、不当な関係性、搾取を強い、またはストレスを与え個人の尊厳、人権をそこなうということにつながる。

無論すべてを賃金や報酬という対価で量るということは無理なのであって、どこまでそれによって等しくすることができるのか、それ以上は無理が生じ不当となるのか、というラインを、人権の時代である現代の社会ではよくよく見極めていく必要があるのではないか。

命というものは天から与えられるものであるので、その子育てにおける対価というのは忘れられがちだし、じっさいに、一体何に対して、の贈与か、誰から、もっともその報酬を受けるべきなのか、わからないものがある。たぶんけっきょくわからないままに終わっていくような気もする。

だがよくよく考えれば、すべての労働が最後には命というものの営みに帰していくことを顧みれば、すべての労働は分け隔てできるものでもないということも言える。さてその時に、目に見える対価としてのお金というものは、そこにどのように介在するのが最も適切なのだろうか。

やはり命ということから、逆算して行くのが最もただしい在り方なのではないか、と思われるのだが。

社会保障という観念は、そのようなことに裏打ちされているだろう。


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