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元哲学徒ディレクターがVision Proを哲学的に考えてみる(第2回)ー身体性、他者性、倫理ー

この記事は、元哲学徒のMESONディレクター辻川が、他者性や倫理を切り口に、Apple Vision Proおよび空間コンピューティングについて考えてみた記事になります。

先日の記事の続編としてお読みいただけると大変嬉しいです。

なお、前回と同様なのですが、私は元哲学徒ではありますが哲学研究者ではないので、専門用語は最小限にさせていただいて、なるべくわかりやすい言葉で考えてみたいと思います。今回もかなり荒削りな思考になっているので、大きな心でお読みいただけると嬉しいです!あと、参考文献も入れていません!笑


これはMESONで実施中のApple Vision Pro 1ヶ月記事投稿チャレンジ2月27日の記事となります。

前日2月26日の記事はこちら:アプリアイコンを超えて


ガラテアの誕生は近い

つい先日、とあるポストを目にした。

Apple Vision Proで表示した3Dモデルがあまりにリアルすぎて、”どう考えてもそこにいる”という感覚を持った、というポストである。私はこれを見て、ピュグマリオン・コンプレックスという言葉を想起した。

ピュグマリオン・コンプレックスとは、狭義では人形偏愛症(人形愛)を意味する用語であるが、私はこれをデジタルオブジェクトに対する愛情という意味に広げて捉えてみたい。

まず、ピュグマリオンとは、ギリシャ神話に登場するキプロス島の王である。現実の女性に失望していたピュグマリオンは、あるとき自ら理想の女性であるアフロディーテの彫刻を造った。その像を見ているうちに彼女が服を着ていないことを恥ずかしいと思い始め、服を彫り入れる。

そのうち彼は自らの彫刻に恋をするようになる。さらに彼は食事を用意したり話しかけたりするようになり、それが人間になることを願った。その彫像から離れないようになり次第に衰弱していく姿を見かねたアフロディーテはその願いを容れて彫像に生命を与え、ピュグマリオンはそれを妻に迎えた。その妻の名前が、ガラテアである。

先ほどのポストに戻ると、私はこのポストを見て、ガラテアが生み出されるのはもはや時間の問題なのではないか、と感じた。空間コンピューティングがCotomoのようなAIアプリと接続されたならば、それは無機的なオブジェクトではなく、もはや私たちが応答すべき「誰か」なのではないか。

デジタルオブジェクトは身体性を持てる

ここでは、応答すべき「誰か」のことを、「他者」と言い換えてみる。私が問うてみたいことは、「空間コンピューティングは他者を生み出せるのか」ということである。

このテーマを考えるにあたってインスピレーションを頂いたポストを紹介したい。

私自身もVision Proを体験してみて、今後ますますデジタルとリアルの境界が曖昧になっていくことを確信した。それはとりも直さず、両者の関係が、私とそれの関係(リアル v.s. デジタル)から、私とあなたの関係(リアルとデジタルの編み込まれた網というReality)へと変容していくことを意味する。つまり、デジタルが「あなた」という他者になるのである。

さて、他者とは一体どのような存在なのだろうか。それを哲学的に解き明かすには筆者の力能が明らかに不足しているが、私が注目している観点を一つ述べると、身体性というものがあると考えている。

あなたが私の前に現れるとき、そこにはあなたの身体がある。もちろんそれは、文字通りの意味での身体でもよいし、声でもよいし、香りでもよい。私はあなたの身体を知覚し、あなたの存在に気づく。そしてその時、同時に、私の身体があなたに知覚されていることに気づくだろう。あなたは私の身体を眼差しているかもしれないし、もしかしたらすでに私の身体に触れているかもしれない。私はあなたの身体を通して私の身体に気づき、あなたもまた私の身体を通してあなた自身の身体に気づく。身体性とはこのように、あなたという存在と私自身という存在をともに、私たちにもたらすものだと言えるだろう。

では、デジタルオブジェクトが「あなた」という他者となるために、身体性を持つことは可能なのだろうか。私には、可能であるように思えて仕方ない。私があなたの目を眼差すときに、あなたも私の目を眼差し、私があなたの身体に触れるときに、あなたも私の身体に”触れ返そう”とすることは、技術的に十分可能であるからである。

人間は他者をデザインできない

それでは、身体性を獲得したデジタルオブジェクトはすでにそれだけで「あなた」という他者と呼びうるのか。事はそう簡単ではないと思われる。他者とは何かを考えるとき、倫理というものを考える必要がある。スマホ上で不要な画像データを削除することに倫理は存在しないように思うが、現実世界で気に入らない他者を削除=殺害することには倫理が存在する。私は、何かが「他者」である限り、その何かと私の間には倫理が存在するはずであると考える。さて、デジタルオブジェクトと私の間には、倫理は存在しうるのだろうか。

まず、前提として、デジタルオブジェクトとは、誰かがデザインしたものである。その誰かは人間かもしれないし、生成AIかもしれない。だが、生成AIであるにしても、少なくとも現状では人間が何がしかのプロンプトを最初に入力しなければならないのであるから、人間のデザインが含まれていると言ってよいと考える。

では、人間は他者をデザインできるのだろうか。別の観点から言い直せば、人間は自己と他者との間の倫理をデザインできるのだろうか。これは非常に難しい問いであると感じながらも、私は「デザインできない」と考える。むしろ、「デザインできないこと」こそが他者の他者性であるし、倫理の本質ではないかと考えている。逆から言えば、私がデザインしたものは、「私という範疇に回収されるもの」であり、もはや見知らぬ他者でないと言える。その意味では、ピュグマリオンに見る、「愛せる他者を自らの手で創りたい」という欲求は、ナルシシズムの欲求の極地であるとも言えるだろう。

人間がデザインしたものであるデジタルオブジェクトは、他者性を持つに至らない、そしてデジタルオブジェクトと私の間にも倫理は存在しえない。そう結論づけてよいのだろうか。

まず初めにある倫理

ガラテアはもうすぐ誕生するだろう。そのとき人間は、ナルシシズムだなんだという頭での思考を巡らせる前に、直感的に、ガラテアを愛し、気遣うだろう。ガラテアを傷つけようとする者から彼女を守るだろうし、時折見せる彼女のわがままにも苦笑いしながら応じるだろう。そこに他者性があると言うことは難しいかもしれないが、二者の間に倫理はあるのではないか。

編み込まれた網としての世界(Meshed Reality)において、重要なのは網ーつまり、結び目同士の関係性ーなのであって、結び目自体が何であるか、何でできているか、ではない。そう考えるならば、ある意味で網は他者同士を編み込んだものとも言えるし、網の糸それ自体が他者性の実体であるとも言えるのではないか。つまり、もはや「デザインできるか否か」という論点はここでは霧散し、他者性という概念は”結い直され”、私とデジタルオブジェクトの「あなた」は、互いに愛し、気遣い合う関係をただ生きる世界がそこにはあるのではないか。

最後に

ここまで読んでくださった方に深く感謝したい。またしても十分な答えを示すことなく右往左往するばかりの文章を読み通すことは辛いものだったと想像する。

空間コンピューティングは他者を生み出せるのかという問いから、他者の有するべき身体性を考え、ついで他者性や倫理とそのデザイン可能性について考察し、最後に、編み込まれた網としての世界における人間とデジタルの関係性を考えてみた。

ガラテアはじきに生まれるだろうし、そのとき間違いなく、いわゆる倫理の問題が生じる。人間はそのような存在を作ってよいのか否か、作られた存在とどのように生きればよいのか、等々。本稿がそうした検討の一助になれば幸いである。



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