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段ボール#SS

 僕が小学校五年生の時、橋田君が教室の窓から転落して死んで大騒ぎになった。橋田君は休み時間中に窓枠に腰をかけ、足を窓の外にやってぶらぶらしていたんだ。で、誤って転落した。窓枠に腰をかけるなんて危ないのに誰も注意しなかった。誰も橋田君を見ていなかった。橋田君はぼっちだったから。

 橋田君の席を片付けていた先生が悲鳴をあげた。お道具箱のなかに虫の死骸がたくさん詰め込まれてあったんだ。それも、両目に針を串刺しにされたとんぼ、脚をすべてもぎとられた蝶々、頭のない蜂など。

 それを見て、あの日の彼がよみがえった。
 
 橋田君はいるのかいないのか分からない子供だった。いや、いるんだけど存在感がなさすぎた。制服がいつもよれよれで汚れているし、近寄ったらなんだか臭う。そんなわけで誰も彼にしゃべりかけないのだった。

 橋田君は休み時間になると机に突っ伏して寝るが、たまにふらっと校舎から出てゆく。次の時間が始まっても戻ってこない時もあったが、先生は何も言わなかった。

 ある日の体育はサッカーだった。僕たちがサッカーに興じていると橋田君の姿が見えない。見回すと校庭の隅っこにうずくまっている。僕はなんだかかわいそうになって、試合から抜けて橋田君に近づいた。上からのぞくと、両目に針を串刺しにされたとんぼが彼の手にあった。

「かわいそうやで」

 思わず言うと、僕を見上げてにやっと笑った。僕はその青白くゆがんだ顔を忘れることができない。

 それからしばらくして橋田君が学校を休んだ。給食のパンを届けに行くよう僕は先生に命じられた。校庭でしゃべっていたのを見られて、仲がいいと判断されたらしい。橋田君の家は古い長屋の端っこだった。

「橋田君」
 錆の浮いた扉を叩いた。しばらくし扉が開き、橋田君が顔を出した。
「給食のパン届けにきたんや」

 僕が帰ろうとすると橋田君は上がってと言った。なんだか埃っぽくて饐えた、変な臭いがする。僕はためらったが断わると失礼かと思い、靴を脱いだ。玄関を入ったすぐに台所があり、その向かいが畳の部屋になっていて、畳の一部が変色しへこんでいた。小さな卓袱台があった。

 僕がパンを差し出すと橋田君はうれしそうな顔をして袋を開け、半分にちぎり、僕の目の前でパンを食べた。残りは袋に戻した。そのとき襖の向こうから小さな咳が聞こえた。

「誰かいるん?」
「お父さん」

 僕は部屋を見回した。部屋の隅に宮崎のピーマンのロゴの入った段ボールがあり、蓋が開いていて、目の細かい金網が被せられていた。

「あれはなに?」
「コオロギや、見る?」
「うん」

 コオロギと聞いて虫の好きな僕は胸が躍った。金網の上からのぞいた。幅八十センチほどの空間に土が敷かれ、たくさんのコオロギが犇めいていた。古くなった胡瓜の臭いが鼻を突いた。

「多すぎへん?」
「せやな。コオロギって共食いするのが困るねん」
「少し逃がしてやったら?」
「それじゃ意味があらへん」

 意味がないってどういうこと、と訊きかけて僕は悲鳴を上げ、跳びのいた。足元にゴキブリの翅が落ちていた。

「ゴキブリやないで。コオロギの翅や」
 橋田君は翅をつまむと台所の流しに捨てた。
「本当はイナゴの方がええねんけど、コオロギは飼いやすいから」

 イナゴと聞いて嫌な予感がした。

「橋田君、まさか……」
「食うために飼うてるんや。腹減ってしょうないもん」
「……どうやって食べるん?」

 僕は吐き気を我慢して尋ねた。

「食べる分だけ紙袋に入れて二日ほどほっといて窒息死さすねん。クソも出さなあかんしな。二日ぐらいやったら共食いしよらへん。で、翅と脚をむしって油で炒める」
「どんな味するん? というか、おいしいん?」
「せやなあ、小エビに似てるかな。長屋のお兄ちゃんに教えてもろたんや。僕も最初気味悪うてよう食えんかったけど、慣れたら大丈夫やで」

 作ってあげるから小野君も食べる? と言われたが固辞した。今でこそコオロギは蛋白質豊富な食材として注目されている。SNS等でなかなか評判のようだ。しかし当時の常識では普通の人間が口にするものではなかった。

 橋田君は寡黙な子と思っていたが、気を許した相手には饒舌になるらしかった。

「むかしはカブトムシもこれで飼うててん」
「ええっ」

 さっきから気になっていた。なぜちゃんとした飼育ケースではなく段ボールで飼うのだろう。尋ねようとして理由に気づき、口を噤んだ。食べ物も満足に買えないのだから飼育ケースは尚更だろう。

「神社の裏でカブトムシようけ捕れるやろ。あそこの土掘ったら幼虫がおるねん。それを段ボールに入れて飼うてたんや」
「橋田君、まさか、その幼虫も……」
「どこかの国ではカブトムシの幼虫を食べるって聞いて、試してみてん。フライパンに油ひいて焼こうとしてんけど、熱がってぐねぐね、撥ねよるからさすがに気味悪うてやめたわ」

 カブトムシの幼虫は腐葉土を食うねん。腐葉土というのは葉っぱが腐ってできる土のことで、そこらへんにある土とは違う。だから定期的に神社に行って新しい土を入れてあげんとあかんねん。
 けど食べるのを断念してから忘れてしまって、箱閉じて、ずっと放りっぱにしてたんや。冬になったら寒くて土掘りに行くのめんどいしな。

 そしたらある晩、寝てたらなんか首のあたりがもぞもぞする。なんやと思て電気点けたらカブトムシの幼虫や。ひえっと思って布団めくったら五匹くらいはおったわ。
 箱を見たら側面があいて、土がこぼれとる。そこから出てきたんやな。なんで布団に入ってくるんやろ、土の中みたいで温かいからかな。

 なんで箱に穴があいたんか? よく調べたんやけど、どうも、水分でふやけてとかじゃなくて幼虫が食ってあけたらしいんやな。たぶん腹減って。
 段ボールって木の繊維でできとるやん。だから、食おうと思えば食えるんやろな。腐葉土を食う奴らやからな。
 
 話の途中から本当に吐き気と頭痛が酷くなってきて帰りたかったのだが、橋田君に悪いかと思い言い出せずにいた。そのとき襖の向こうからまた咳が聞こえた。これ幸いと、僕は橋田君の家を辞した。
 
 翌日から学校へ行くと橋田君がしゃべってくるようになった。でも僕は適当に相槌を打ち迷惑そうにした。コオロギやカブトムシの幼虫が熱い油の上でのたうち回る映像を夢にみるほど彼の話が気持ち悪かったし、貧乏人の橋田君と仲がいいとみんなに思われるのが嫌だったから。

 橋田君は悲しそうな顔をしてしゃべってこなくなった。以前の、存在感のない子に戻った。橋田君が死んだのはそれから一ヶ月ほど経った頃だ。橋田君の葬儀の翌日、先生に呼ばれた。

「君は橋田君と友達だったの? 一度、パンを届けに行ってくれたよね」
「友達じゃないです。先生に言われて届けに行っただけです」
「橋田君はいじめられていたのかな?」
「いじめられていたというか……本人が放っておかれたいと思ってる感じなので、誰も寄りつかなかったみたいです」

 橋田君を無視したことはもちろん黙っていた。

 実は、と先生は言いにくそうに続けた。お道具箱の虫の死骸の下に紙きれがあり、それに「死にます」と書かれていたという。僕はぎくっとして、それだけですかと訊きかけて、慌てて黙った。

「だから、いじめがあったのか調査しているんだけど……何か思い出したことがあったら教えてね」

 このことは絶対に誰にも言わないようにと何度も念押しされ、僕は教室を出た。
 
 先生。橋田君は自殺したのでも、事故でもないよ。だって僕、見てしまったもの。ぼうっとした白いかたまりが、窓枠に座っていた彼を押したのを。
 そうあれは、彼が殺した虫の怨念だよ。自業自得だよね。
 足をぶらぶらさせて危ないと思ったけど、黙っていた僕のせいではないよ。



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