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旅・移住・フィールドワーク……密かに人気の「五城目町」~醸されてきた文化から滲みだす人々の魅力~

はじめまして!
秋田県五城目町で、地域住民のみなさんと「日々の暮らしを楽しむ」ことで自然と育まれるようなまちづくりに取り組んでいる集落支援員の八嶋美恵子と申します。

東京から五城目町に移住して丸3年。
現代は、どこに住んでも、お金を払えば衣食住を賄え、生きていくことができるので、これまで自分の住む土地に根付いた「文化」を身近に感じることはありませんでした。

しかし五城目町に来て人生の先輩方と話している中で、先人がこの土地で育んできた生活習慣をできる範囲で大切にすることが、今の「豊かな暮らし」に繋がることに気付きました。


~今と昔をつなぐもの~

たとえば、これは何でしょう?

これは、五城目町の山間部、馬場目地区の各集落で今も続く『百万遍念仏』の際に使う、藁(わら)と南天の葉っぱです。
数十年に渡って使い込まれてきた里芋1個位の大きさの玉が連なる念珠を回しながら、神仏や祖霊を鎮め、村人の安寧と五穀豊穣を願い、日々の暮らしに感謝する行事が『百万遍念仏』です。

念珠が1周する毎に、ひとつまみの藁と南天の葉っぱを束ねます。最後に、その数を数えることで何回念仏を唱えたか(念珠をまわしたか)が分かる仕組みになっています。

『百万遍念仏』は季節ごとに行う集落行事という側面もある一方で、農作業の合間の時期に女性達がお弁当を持ち寄り、お茶を飲みながら情報交換をして親睦を深めるなど、人と人が繫がるための役割も担っていたそうです。

わたしは仕事柄、このような文化を知ることができましたが、「それだけじゃもったいない!子どもや若者も実物を触ったり、体験したりできる機会を作りたい!」ということで、
旧馬場目小学校を活用したシェアオフィス「馬場目BASE」の10周年に合わせて、写真の方々に実演していただくことができました。

馬場目・杉沢集落で『百万遍念仏』を中心となって続けられている方のお宅にお邪魔しました。
その際も、みなさんでお茶っこ(秋田弁でお茶をのみながらおしゃべりすること)をされており、習慣を守り続けていく中で育まれた繫がりのあたたかさを感じました。
(同行した息子も沢山遊んでいただき感謝でした)

~今ここで自分が担うことでつながっていくもの~

今もまだ残る習慣があるとはいえ、時代が大きく動き、生活様式さえも変わっていく世界の中で、これまで社会を育んできた「文化」とは何なのでしょうか。また、その魅力とは。

今と昔の生活習慣が交じり合う五城目町で、深堀りしてみたいと思いました。

そこで、五城目町にUターンして、町の中心部で「ものかたり」というアートギャラリーを運営されているオーナーの小熊隆博さんにお話をうかがいました。

ー地域に育まれる「文化」とは、何だと思いますか?

高校を出てから県外に出て、その後、京都、香川の島で暮らしてから帰ってきました。地元にずっといると、地域の文化や伝統ってそんなに自分ごとにはならないですよね。
京都では、宮廷や貴族、市井の文化が千年単位で残っていました。そして香川では、瀬戸内というひとつの単位で、豊かな土壌の文化が残っているのを感じました。

日本を出ると日本のことを考えるのと同じように、秋田を出ると秋田のことを考えるんですよね。五城目にUターンして、これから家族と生きていくこの場所で、いかに豊かに暮らしを営んでいけるかなと思った時、瀬戸内の豊かな生活環境を支えているのは文化だったな、と思いました。

「これが文化だ」って言葉に出して言う訳ではないけれど、その土地で生きる人のアイデンティティというものが感じられるのが文化なのではないかと思います。「京都といえば〇〇」のような表層的なものの手前に、自然と醸し出されてくるものが「文化」だと思います。

それから「伝統」「文化」って、変わらずに残っているもののように見えるかもしれないけれど、変わらずに残っている文化ってほとんどないんです。ずっと新しい人が入ってきて、変わって、誰かが続けてきた。
代謝していくように、連綿と続いていくモノの一部分が文化なのではないでしょうか。
言葉には出さずとも、人の振る舞いや普段の生活から感じられることが、豊かさの印なんじゃないかと思います。

ー五城目町で今も息づく文化。どんなところで感じますか?

五城目町というと「朝市と城のある町」といいますが、ものかたりの目の前には朝市があります。そして、「朝市の出店者が減っているから、五城目の文化が危機にある」という表現をすることもできます。

ただ、そうなのかもしれないけれど、500年以上続いてきた朝市が、まだ変化の途上にあるという見方をすることもできるのではないでしょうか。
これが出店者が0になって、消滅してしまったらそれは危機なのかもしれないですが、実際には「朝市ってなんか面白そう」と、8年前に当時の地域おこし協力隊のメンバーが、町外の人も入ってチャレンジできるような流れを作りました(ごじょうめ朝市plus+)。

朝市って実は「小商い」の場としてすごくいいんですよね。
元は「生活市」だった場所を、ひと世代前は「観光市」にしようとしていました。それが今、「小商い」の場として変化してきているのだなと、Uターンして10年近く経って見えてきたところです。

五城目町にUターンしてきて、「これは文化なんだ」って気づいたことが3つくらいありました。それが、朝市・発酵・民俗芸能です。発酵のひとつが、日本酒です。五城目町に来て「日本酒がこんな味なんだ!」と知れたのはわが家にとって革命的でした。

五城目町の酒蔵、福禄寿の社長 康衛さんに話を聞いた時、「福禄寿は『水』だと思う」と聞きました。福禄寿の水は、五城目町のシンボル、森山から引いてきています。
つまり、自然がそのままお酒の中心的な要素になっているから、
作ろう!と思って作れるものではないんですよね。

水という自然に着目すると、五城目町の民俗芸能「番楽」が大切に育まれてきた集落のひとつ「中村」は、馬場目のなかでも特に水がきれいなところと言われています。
その地域に人が住み、そこで宗教観が形づくられるのは自然ですよね。それが番楽などの文化にも繫がっているのかもしれないです。

文化が豊かになる背景には水が関わっているように、五城目町は、馬場目川流域文明圏という言い方があります。水のあるところで文明が発達するのは歴史が証明していますよね。

ー改めて、五城目町の目には見えない魅力とはなんでしょう?

文化っていうのは、自分が生きていく自然環境に対して働きかけた結果として生まれるものです。稲作も、狩猟も、それから得られた恵みに対する感謝として民族芸能が発達することも。そして豊かなものを交換する役割が朝市。
稲作も狩猟も朝市も、五城目町が日本一というわけではないけれど、そのどれもが、いい塩梅に育まれ残っている、ミックスカルチャーが五城目町らしさなのではないでしょうか。
また、それが途絶えそうになった時に、外から人が入ってきてつながれていく、、、それが五城目町のオリジナリティーなのかも知れないですよね。

福禄寿の現社長のご夫妻は、15代続いてきた酒蔵を継いでいて、これからも継いでいく間にいる、とリアルに感じられているそうです。
僕は長男で、家は継ぐものだという教育を強くされたわけではないのですが、昔ながらの「長男は継ぐものだ」というのは、押し付けられてる感じであんまりしっくりこなかったんです。
でもそれが、「自分が担うことでつづいていくものがあるらしい」と考えると、そういう意味での「文化」がまるごと自分事になっていくところがあるのではないでしょうか。

その「過去と未来をつなぐ今を担うこと」って、特別な人とか、五城目にずっと暮らしているかとか、移住者かどうかって関係ないと思っています。それくらいの時間軸でみたら、みんな移住者なわけですからね。

~今の暮らしのなかに息づく、先人たちの想い~

小熊さんのお話をうかがって、筆者にとって、文化とは
先人たちの営みがあってこそ、今のわたしたちが存在できていると実感するもの
だと改めて感じました。

移住者としてある地域に移り住むと、自分は「よそもの」としてその土地の文化を繋いでいく人としてふさわしくないのではないか?と思ってしまう人もいるかもしれません。
しかし、小熊さんも仰るように、どの土地で生まれたかどうかに関わらず、今ここに生きていられるのは、先人たちの想いや営みがあってこそですよね。自分の暮らす土地の文化や歴史を知ると、過去と未来の世代の間に立つ自分を見つめることができるように感じます。

最後に、五城目町の歴史を深く知る方にもインタビューをさせていただきました。
前町長の佐藤邦夫さんです。お話の中から、エッセンスを届けられればと思います。

ー佐藤さんが暮らしている馬場目・中村地区とはどのようなところですか。

中村は、清流馬場目川の中流域に位置し、その豊かな流れと共に、背後にそびえる「薬師山」の湧出水に恵まれた豊かな水の里です。
この地に人々は定住し、生き続ける中で自然や祖霊を崇め、神仏に祈りを捧げ、その思いを託してきました。その想いはやがて宗教観を形づくり根付いていった......そういう人々の生き様の中で「番楽」という芸能文化も形成されていったのではないでしょうか。

馬場目の地は五城目町や湖東部では最も古くから拓かれ、発達した地です。それ故、朝市の発祥や多くのものが色濃く残されているのかもしれません。豊かな水のあるところに文明が発達する一つの例かもしれませんね。

ー五城目町の中でも、馬場目らしさとはどのようなものでしょうか。

人々はこの豊かな山河めぐる自然を舞台に、山に木を植え、木を切り出し、山の幸を得て、稲作や畑作に汗し、商いを大切にして歩んできました。
その人々の想いや遊びとして、民俗芸能や祭典の継承や、朝市の誕生の地を誇りとして語り継がれてきたのでしょう。
これらの全てが、人々の心を耕し、暮らしや文化継承に彩を添えてきたのでしょう。

ー五城目町の文化としての伝統芸能のルーツとは。

今生きている人たちが、色々伝え聞いた、あるいはうろ覚えに覚えていることで、たとえば念仏講などがあるというだけではなくて、いつの時代から、どのような背景で生まれてきたのか、なぜそれが馬場目という地に定着していったのか、そういうところも踏まえていくことで見えるものがありますよね。

たとえば、今も五城目町の一部で舞われている伝統の『番楽』は、日本特有の修験道、山伏集団の宗教的舞踊の山伏神楽として当初始められ、次第に民衆に普及するようになっていったのです。

往古の人々は人智の計り知れないものに畏怖異形の念を持ち、森羅万象、万物に神(カミ)が宿っているという修験道や古神道の日本固有の思想は、日本人のアイデンティティの形成に深く刻まれてきました。

超自然的な能力を感得しようと山岳にその場を求める山岳信仰(山々は神の降臨する地)を基本とし、修行を重ねた山伏修験者、私度僧や遊行のひじりたち、また神奈備かんなび磐座いわくらに神が降臨するという古神道、行者たちが生まれ、やがてこれらに仏教、密教、道教などの仏や教えが習合され、体系化されました。
この山伏、修験者、行者たちは全国にそのネットワークを張り巡らせ、山々を開山し、神仏を鎮座させ、人々の教化に務めたのです。

この中村・馬場目の地の開山も、このような修行の人々によって成されたのでしょう。
また、これらの修行者たちは、村の人々の祖霊供養や祭祀、葬送、病気加持祈祷や一年四季の祭礼、産土神、鎮守の祭礼など、その生活に密着した活動を展開しました。
そしてこれらの人々によって、やがて寺院(修験者院)、堂宇、神社などが建立され、人々の生活と精神を支えていったのです。

馬場目の地は、今なお、村々にこの山岳信仰と修験の文化を色濃く伝えているのです。そして、それらはわたしたちが決して見失ってはならない原風景のひとつなのです。

「番楽」もまた、この修験山伏文化のひとつとして伝えられてきたのでしょう。
中世から近世にかけて、五城目町は県央部と県北部を結ぶ交通の要衝の地として、また北前船の荷の集荷地として、瀬戸座や線香座など、多くの座や市が開かれ、それを生業とする人々が定住し、多くの人々が集い交流する商いとして商業街を形成してきました。
木工、建具、桶、樽、打刃物、弓矢の制作などの伝統的地場産業を育んできた地でもあります。

時代の変遷とともにその姿は大きく変化してきましたが、その歩んだ姿は人々の心に刻まれ、新たなる創造の時を迎えようとしているのかもしれません。
そうした、目に見える文化や伝統の背景にある歴史、大切にされてきたことを知ることは、五城目という町を今の姿だけではなく過去から未来へと繋いでみることに繋がるのかもしれません。

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今回、お二人のお話を伺う中で、五城目町に定着する移住者やリピートする旅人、学生のフィールドワークや、ごじょうめ朝市plus+の出店者が多くいる理由のひとつとして、目には見えない文化がエッセンスとして人々から滲みだしていることがあるのかな、と感じました。

今ある行事や文化には、後継者の減っていくばかりで消滅していくように見えてしまうものが沢山ありますが、人々の意識やそこから派生する暮らしの営み、交流を通して、過去から紡がれた文化のエッセンスは形を変えて残っていくのではないでしょうか。
そんな五城目町のこれからを一緒に作っていく仲間として、みなさんも遊びにいらしてくださいね。

【著:五城目町集落支援員 八嶋美恵子】

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