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それは変化し続けるそれはあらゆるものと関係を結ぶそれは永遠に続く/意味の無意味の意味

『それは変化し続ける それはあらゆるものと関係を結ぶ それは永遠に続く』
作家:宮島達男
赤い光を放ちながら点滅する無数のデジタルカウンター。その数字は様々な速度で1から9まで数えたのち、0の代わりに闇が表示され、また1から数え始める。なかには9まで数えた別のカウンターからの信号を受けてカウントするものもある。
カウンターひとつひとつを個人に、その集合である全体を組織とみることもできるし、また世界の国々と地球、地球と宇宙、あるいは細胞と個体、砂粒と砂というようにさまざまなものの部分と全体をこの作品にみることもできる。この世のすべてのものは発生・存在・消滅し、それを永遠に繰り返し続ける。そして時間はこの世に存在するあらゆるものに同じように流れている。だが時間の感覚は個々により、状況により一定ではなく、それぞれが周囲と緩やかに関連しつつそれぞれの速さで時間を刻み続ける。
解説:東京都現代美術館


約15年前、通っていた大阪の大学から逃げ出してしばらく東京でフラフラしていたときに、ぱっと目に飛び込んできたのがこの作品でした。この作品に出会っていなかったら、今回の高野山行きはなかったかもしれません。関西に行く前にどうしてももう一度観ておきたかったので、最後に行ってきました。

当時20歳だった私は、自分では回避できない理不尽にぶつかって、それまでの10代を無駄にしてしまったと感じていました。
20歳の私にとって10代は人生のほとんどすべてだったので、今思うとチャンチャラおかしいのですが、だいぶ思い詰めていました。

だいぶ思い詰めて思考停止に陥ったときに、デジタルカウンターの数字が淡々と流れていくのを眺めていると、頭の中のノイズが静かになったのを覚えています。思考停止ではなく、実際には混乱してぐるぐる同じところを回っていたと気付いたのもその時です。

そして、1から9までのデジタルカウンターが人ひとりの人生だとして、自分はその1が2になるかならないかの一瞬のところにいることを、ちょっと引いて観ることができた。

それから現代アートに沼った私は、大阪の大学に戻って学芸員資格を取得したり、展覧会をサポートしたり、企画したりして今に至ります。大学を卒業して15年以上が過ぎ、今は全く異なる仕事をしていますが、自分が企画した展示が今でも学内で後輩に受け継がれている事実は、私の大切な宝物です。

あの時、思い詰めたときにちょっと引いて自分を観てみる、メタ認知することで救われた体験や、この作品が持つ世界観が仏教的な世界観だということを理解するのはもっと後のことです。

国内ではお葬式のイメージが強い仏教ですが、とてもロジカルで、生きている人がより良く生きるためのソリューションになるのだと私は感じています。私が仏教とテクノロジーの相性が良いように感じるのも、この作品の影響が強いのかもしれません。

最近では落合陽一さんのnoteに共感しています。

真言をオブジェクト指向プログラミングになぞらえるところなんて最高。わかりみがやばい。でもやっぱり、私がネットワーク系の人間のせいか、真言はソースコードっていうよりIPアドレスだと感じます。インターネット網は真言密教でいうところの阿頼耶識と相似していて、各帯域にアクセスするためのIPアドレス、各デバイス(個人)にはMacアドレスが割り振られているイメージが強いです。

このあたりのことをもっと深めたい。これは今後の作品のテーマにしようと思っています。

少し前ですが、群馬県の前橋にあるアートホテル・白井屋ホテルに行ってきました。ここの貸し切りサウナに隣接するクールダウンするためのお部屋にあったんです、宮島達男のデジタルカウンターが。もちろん貸し切り。超贅沢。

サウナはフィンランド式の貸し切り。キンキンの水風呂もあった。
デジタルカウンターがあるのは、小高い丘の上の専用の小部屋の中。

温度高めのサウナと水風呂を5セットほどした後、貸し切りの密室で、整いかけた脳にデジタルカウンターの光は効きました…。マインドフルネスさせてもらったんですが…どうなったかはご想像にお任せします笑。
このときは改装中で入れませんでしたが、コンテンポラリーなデザインのお茶室も隣接していました。レストランで食事してワインを飲んだ後のお茶室での儀式的な所作、濃茶のカフェイン、サウナと水風呂で整ってからのデジタルカウンターの光を想像すると、だいぶ深く潜れそうな気がしませんか?

白井屋ホテルはサウナの他、設備もお料理もアンビエントな音楽も、全部アート。メガネのJinsのCEO田中仁さんが、廃業の老舗ホテルを買い取り、地元に恩返しするためリフォームしたそうです。偶然、地元の名士っぽい方々とホテルのラウンジで会食されてるのをお見かけしたのが印象的でした。前橋アートセンターも徒歩で行ける距離なのが嬉しい。


後は私の中でメタ認知と言ったらこの方。村上隆さん。

不気味な造形を自ら選択することで、積極的に不気味の谷を越えていく攻めのスタイル。

彼の禅と、アートへの愛とパンクな思想に魅せられて、私は10代のころから大ファンです。今日までずっと追いかけています。

ひとつ前のnoteでは好きが積もり積もって二次創作してしまいました。

10代の頃に初めて観た彼の絵は一見とても不気味でした。ぺらっぺらの平面と、かわいらしいキャラクターをぐにゃぐにゃに変形させた構成、美少女フィギュアの性的な部分を異常に誇張したもの、目玉、目玉、目玉。

でもそれらを不気味に感じるのは、観ている私の価値観の問題でした。いわゆる美術のお約束の『遠近法』『一点透視図法』から逸脱しているから不気味に感じるんですね。どちらのお約束もたかだか150年前に海外からやってきたもの。それより前の私たちには、そもそもそんな風景は観えていなかったみたい。そして絵画の世界だけでなく、私たちの現実の風景の捉え方も『遠近法』『一点透視図法』に囚われていることに気付いたときは本当に驚いたものです。

何をやっても上手くいかなかった10代の頃、その時いた世界とは全く違う価値観がこの世に存在することを知れたのは救いでした。

自分とは違う価値観がこの世には存在すること。たまには違う価値観を通して世界を観てみる面白さを教えてくれたのが村上隆さんの作品でした。ティーンの魂は百まで。これからもずっと追いかけるつもりです。

この村上隆さんの自分がいる世界をちょっと引いてみてみる、自分とは違う価値観を想像してみる、共感してみる、没入してみる体験はどうやら禅の思想から来ているようです。

彼の東京芸術大学の博士論文のタイトルは『美術における意味の無意味の意味』。タイトルからして禅問答のようですが、内容もしかりでした。市販の出版物には収録されていませんが、国立国会図書館からダウンロードして読むことができました。

これから私の中で禅ブームが来そう。道元は推せる!

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