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余情 24 〈小説〉

 冬が来て、春がまた来て、繋ぎ合った指先が溶け合うように夏が来た。
 あなたがいない夏。
 私は二度目の受験生をやっていた。
 私のまわりには人があまり寄りつかなくなった。その代わりのように一人、昼食をいっしょに取る級友ができた。彼女はやわらかく三つ編みを編み、眼鏡の奥の目がつよい意志をもっていた。
 彼女と話すようになったきっかけは、やっぱり本だった。
 出会いは、春。
 クラスが進路によって分かれ、学生という身分の短さを誰もが感じ始めていた。それがもたらす副産物のように、勉学にさらに身を入れるクラスメイトが目に見えて増えた。
そんな中私は、去年そうしていたように、後輩が貸してくれた本を教室で広げていた。
 最近人気の本なのだと、後輩にしては珍しくミステリ小説を貸してくれたのだ。しかし誰かが死ぬことはなく物語は進み続け、左手の重さよりも右手にかかる重たさの方が随分重たくなってきていた。
「それ、何周目?」
 その時声を掛けてきたのが彼女だった。かがんで覗きこんだ丸い目は、好奇心で磨き上げられていた。その目が私の読んでいる部分を探り、私の目が落ちていた文章のあたりで行ったり来たりした。
「何周目ってどういうこと?」
「あ、じゃあ一周目だね」
 前の席に自然に座りながら、彼女は笑った。なんとなくその目をじっと見返していた。それに怯むでも、険と受け取ることもなく、彼女は笑顔で私の目をまっすぐに見た。
「その本は、二度読みすると楽しい本なんだよ」
「そうなの?」
「帯は読まないひと?」
「私の本じゃないの。借りた本だから」
 彼女はそれを聞いて小さな口を両手で塞いだ。
「え、それはごめんなさい。きっと貸した人は読み終わった時の衝撃を味わってほしくて、わざと帯を外して貸したんだね。ほんとうに、ごめん」
 椅子の固い背もたれを掴んで、彼女は勢いよく頭を下げた。それをあっけに取られて見ていると、また勢いよく彼女が顔を上げた。その目には本当に申し訳ない気持ちが溢れそうに揺れていた。
「ほんとに、ああもう、私、その本を読んだばかりだったから、あなたと感想を話せるかもって嬉しくなっちゃって。ネタバレなんて最悪だ」
「ううん、いいよ。そんな、ネタバレというほどのことを話されたわけじゃないし、大丈夫」
「よくないよ。ねえ、この作家さん好き?」
「さあ、この本がはじめて」
「そっか。よかったね。この作家さんは人が死なないのにすごく面白いミステリを書く人なんだよ」
 にこにこと話す彼女に、
「え、人が死なないミステリなんてあるの」
と言ったら、またものすごく申し訳ない顔をされた。両手で拝む格好をしながら、また謝りはじめた彼女を、私はとても不思議な気持ちで見ていた。周りのクラスメイトも何をしているのだろうと、ちらちらと視線を寄越していた。
 その後彼女に、ミステリの形にはいろんなものがあること、私が読んでいたものは伏線が張り巡らされているため、全てが解き明かされたあとに読むとまた違う物語が現れるものだということをきいた。彼女曰く、ミステリを読む楽しみは、衝撃をどれだけ受けられるか、なのだと言った。時には種類を知るだけでも衝撃を減退させてしまうので、読んでいる間は注意が必要なのだとも。
 彼女のあまりの熱量の大きいミステリ講義に、私は知らない間に聞き入っていた。
 予鈴が鳴った時、いそいで立ち上がる彼女に
「いろいろ教えてくれてありがとう」
といった。彼女は一瞬何の表情も表さなかったが、すぐに私の言葉を呑み込んで大きく笑った。
「その本、読み終わったら感想会をしよう」
頷く私に、彼女は手を振って自分の席へ戻っていった。
 残りのページ数が少なくなった本を閉じて、次の時間の教科書を取り出した。意外な場所に本が好きな人間がいたのだという驚きがあった。図書室や図書館にいる人間の多くが本を好きな人間なのだろうけれど、そのうちの何人が同じ本を読むだろうか。級友が感じた喜びが、ほのかに胸の内に滲んだ。
ふと、彼女の席を見た私に、彼女もまた振り返り、軽く口角を上げてみせた。その様子が、まるで息の長い友情を分かち合ってきたもの同士のようで、なんだか少し頬をくすぐられているような気持ちになった。
 教室に教師が入ってきたタイミングで、彼女は前を向き、その後はこちらを見たりはしなかった。
 彼女とはそんな出会いだった。
 その日はそのまま話しかけられることはなく、次の日また彼女は私の読んでいる本の背表紙を確認しにやってきた。昨日と同じものだったのを確認し
「何周目?」
と控えめに聞いたのだった。私が
「二周目」
と答えると、彼女の目には稲妻が光り、また前の席に座ると、私の机に肘をついて長居をすることを宣言した。私は彼女を気にすることなく、本を読み、やがて予鈴とともに彼女はまた自分の席へ戻っていった。
その日の昼休みからだ。彼女が私の方へお昼を食べにやってくるようになったのは。近くの誰かに椅子だけを借りて、彼女は私の机にお弁当を広げた。緑色の包みをひらいて、明るい色の卵焼きを自慢した。読んでいる本の話をはじめ、好きな作家の話をし、私に本の感想を求めた。食べるのが遅い方ではなかったはずなのに、彼女の話を聞いていると昼休みはあっという間に終わってしまうようになった。
 何度か、次の移動教室に間に合わないのではないかと焦ったこともあった。
 彼女は私の倍以上も話しているのに、いつも半分の時間で食べてしまうのも不思議だった。
「私も、本を読みながら食べる時は遅いよ」
「それは、後輩に聞かれたら怒られる読み方ね」
「後輩ちゃんは本が好きなのね」
「家族ぐるみで本が好きなの」
「うらやましい」
 そんな彼女が後輩と会ってみたいと言い出すことは自然なことだった。
 私と後輩は、最近では図書室ではなく、自動販売機のある渡り廊下のベンチで落ち合うことが多くなっていた。
 本が読みたければ後輩の家に寄り、本を貸してもらう。それに少しも抵抗を感じなくなっていた。
 そしてある日何も言わずに、放課後に後輩のもとへと旧友を連れて行ったのだ。前もって伝えると、後輩は反対するか、臍を曲げてしまうだろうと思った。
 級友と二人で向かった渡り廊下。先に来ていた後輩が、私の隣に級友の姿を認め、その毛並みは一瞬で不振を露わにした。いつものつよい瞳で級友を見上げ、聞いたことのない無愛想な声で私へ問いかけた。
「どちらさまですか」
 その言い様に、級友は怯むでも気分を害するのでもなかった。そんなことよりも後輩が読んでいた本の方に目が釘付けになり、私にはじめて話しかけた時のように目がきらりとまるい光を転がしていた。
「これって、昨日でたばかりの本でしょ」
 旧友の第一声に、後輩の顔の不満が緩んだ。
「そうです」
「すごい。私もすごく読みたかったんだけど、今金欠で、バイトのお金が入るまでは我慢してるんだ。どう?おもしろい?」
「おもしろい、ですよ」
級友の勢いに、後輩が少し背をもぞもぞとさせながら、髪の毛を耳へとかけた。それに気付いてるのかいないのか、級友はもう一度くっきりと笑顔を作って言った。
「どうぞよろしく」
 手を差し出した級友を、後輩はゆっくりと見やり、仕方ないという顔をして、ほっそりとした手を貸し出した。その手はしっかりと旧友に握られ、軽く上下に揺らされた。級友の力強さに驚いた顔をした後輩を見て、私は笑っていた。
 急に級友を連れてきたことを後輩に謝りながら、私は彼女が本をとても好きなことを説明した。後輩ともきっと気が合うだろう、と。後輩はすこしばかり眉をしかめて聞いていたが、ひとつ息を吐き出すと「そうですか」と言って、級友のほうへ目を戻した。
「こちらこそ、先輩、どうぞよろしく」
「よろしく」
 挨拶が終わったあとは、後輩は級友からの質問攻めにあった。後輩が座っている隣へと迷わず腰をおろし、それを見た後輩が素早く私の座る場所を、後輩を挟んだ反対側の端っこへつくった。そこへ座りながら、口の中で小さな笑いが転がった。その丸みを口端にこぼしながら、後輩に次々に質問をする級友と、それに律儀に答えていく後輩を眺めていた。
 暫くして後輩は、話の切れ目に素早く立ち上がった。
「今日は解散です」
そう言い放ち、すっくと立ち上がった。
 真ん中の抜けた状態になったベンチ。
 私と級友が彼女を見上げる形になり、そして後輩は私へと目を結んだ。
「先輩、今日はどうします」
「寄っていこうかな」
「いいなあー。私も寄らせてよ」
「遠慮してください」
「先輩なのに」
「先輩でも初対面ですから」
 言いながら、後輩は私の手をとり、立ち上がることを強請った。彼女の白い手首が、紺色の長袖の隙間に覗き、この対比ももうすぐ終わりだと感じた。
「またね」
 級友はまだ立つ様子はなく、私と後輩の二人へと手を振った。その目が、とても面白かったことを伝えるように、山なりに柔らかく曲がっていた。
「また、明日」
 口をついてでた言葉の久しさに、最後の音の形で口が止まった。それをまた級友が笑う。
「私のおすすめも、持ってくるね」
 頷く私に、やわらかく、級友は手を振った。後輩が無言を貫いて、私の手を引いた。
 こうして繋がった、私と級友と後輩は、たびたびここで落ち合うようになった。
それが春終わりのこと。
 夏休みまでの時間、級友は時折私にくっついてきて、放課後を後輩もいれた三人で過ごすようになった。そのうち後輩は家に級友が寄ることを承諾し、その時の級友は「やっと天岩戸が開いたか」と喜んだ。
 そうやって関係が積み上がっていき、また夏休みはやってきたのだった。

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