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余情 30〈小説〉

 大学は、無事に合格することができた。
 あなたのおばさんも、後輩も、お祝いをしようと言ってくれたのを、私が強く断った。
 三学期は、受験が終わってしまった生徒にとっては余暇のようなものだった。
 本当は登校しなくてもいいのだけれど、図書室に行くついでだと思って、毎日制服を着て通っていた。
 級友は、来なくてもいいと言われると、すぐにバイト三昧を宣言し姿を見せなくなった。
 その級友の姿を久しぶりに見かけたのは、学校の帰りに寄った書店でのことだった。駅の中にある書店は、帰り道にあるために買う本が無いときでも足が向く場所になっていた。
自動ドアを入ってすぐ、新刊を平積みにしている台の上を一通りを眺め、そのまま文庫の棚へと進んだ。色とりどりの背表紙を眺め、頭上から落ちてくるクラシック音楽を肩に受けながら、足が向くのに任せて歩いてまわっていた。
 そして見知った彼女の首の線を見つけのだ。彼女のほうでも、私の視線に気付いてこちらへ顔をむけた。あ、と彼女の口が開き、そのまま嬉しそうに口角をいっぱいに上げて笑った。
「ひさしぶり」
「元気そう」
「体力がすごくついたよ」
「何を見ていたの」
「小説を探しに」
「本当に本が好きだね」
彼女は目を細めて、肯定を示した。
彼女の手の中には数冊の本がすでに確保されていた。旅行雑誌と見慣れない大きさのハードカバーの本が二冊。暗い赤色に、金文字でタイトルと作者名が書かれていた。
「その本買うの?」
「うん。最初に行く場所に、この作家さんの生家があるの。観光地も見るつもりだけど、作家が生きていた時間と、ここまでが繋がる場所が見てみたいと思って」
「いいね」
「最高の旅になる」
 級友は確信をもってそう言った。彼女の、口を惜しみなく開けて笑う笑い方が好きだ。こんな風に笑っていた自分を知っている。それは恐ろしく奥まった場所にまで行かないと、もう会えない。今その笑顔が生きているのかどうかも、もう分からない。一度歩いた十年が、私の内側を複雑にし、惑わせているのかもしれなかった。
「そっちは何か買うの?」
「ちょっと寄っただけだけど、面白そうなものがあれば買いたいと思って。おすすめある?」
 彼女の目がすっと一度静かに細められた。笑うようにも見えるその目は、けして笑うということを含まなかった。波が引く様子に似て、大きく引けば、その分必ず戻ってくる。そんな感情の動きの現われだった。彼女は好奇心を惜しまないし、隠さない。
「あの子に聞いてあげた方がいい」
「後輩?」
「そう」
 級友がすぐ側の文庫本を一冊手に取り、レジへと向かう。それに付いて行きながら、彼女の肩越しに問いかけた。
「後輩以外から本をすすめてもらうのって、嫌がるかな」
「嫌がるでしょ。私が最初に二人の待ち合わせ場所に付いていったときの顔覚えてないの?」
「でも、もういっしょに放課後を過ごす仲にはなったじゃない」
 彼女がレジカウンターに本を乗せてから、私を振り返った。その目は少し不思議そうに細められていて、私への評価を更新している最中のようだった。
「なんだか、私に失礼なことを考えているのね」
「それは分かるのね」
 お金を払って、紙袋を受け取りながら級友は笑った。本屋を出てから、そっとすぐ側の喫茶店を彼女は指さした。その目は、もういつもの好奇心の塊そのものだった。
「お茶一杯奢ってくれる?」
「旅立ちの前祝いにね」
「やった」
 白い息を吐きながら、級友のあとを追いかけて店の中へ入った。店内は流行の歌をオルゴール調にしたものが小さく流れ、落ち着いた焦げ茶のタイルの色と、計算されて置かれた観葉植物のくっきりとした緑が印象を飾っていた。淡い黄色のエプロン姿の店員に案内されたのは、小さなテーブルに華奢で背の高い椅子が向かい合う、観葉植物にやんわりと囲まれている席だった。
 後輩と会った喫茶店をふと思い出していた。彼女の流したきれいな涙も。
注文をお互いに済ませた後、級友はもったいぶって私の目を覗き込んだ。その口元には含むものがあった。テーブルの上に置いた紙袋を、とんとんと指で叩き、彼女は腕組みをした。さあ、はなしてみなさいと言わんばかりだ。私は水で唇を湿らせてから、その目に相対した。
「君には、あの子と私の関係がどう見えているの」
「その質問はどういうもの?後輩ちゃんが君に貫いている姿勢は一貫しているけれど、君のあの子への気持ちの受け取り方は、曖昧だ。そして変化しているようにも見える。二人の間の感情の質が近づかないのに、それに名前なんてつけられないでしょう」
「受け入れているだけじゃ、名前は与えられないものかな」
 級友は組んだ腕を外し、私の前に指を一本、とん、と降らせた。テーブルの上の小さなその爪を経由して、私は彼女の目に飛び移る。
「それはちょっと、ずるくない?」
「私が?」
「自覚ないの?」
「ない」
 言い切りながら、私の目は級友の目から飛び降り、丸いテーブルの線をなぞりはじめていた。ずるいことなど、よく分かっているのだ。私が十年しか生きる気がないことが、もうすでに。
「君って、本当に嘘つきだねぇ」
 級友の声が耳にそっと触れて、中には入らずに消えていった。
 二人が注文したものが届き、それぞれに喉を潤した。級友はこんな凍える日に、鮮やかなメロンフロートをおいしそうにスプーンで掬っていた。
「口の中が寒くならないの」
「ソフトな南極体験だよ」
 私は明るい茶色の湖面を見下ろす。香り立ってくる桃の香りがやさしいお茶だった。
「私はね、後輩ちゃんは、君のことが一番好きなことはよく分かっているの。だから彼女は私が君に話しかけることを、しぶしぶ了承しているんだよ」
「分かっているから、いいっていうこと?」
「私は君の友達になりたい。それをあの子が理解してくれているからね」
「じゃあ、本を勧めてもらうこともいいんじゃないの」
「違う」
 もう白いアイスはあらかた彼女の中に収まり、泡が次から次へ湧いてくる緑の液体に、その残りの色は滲み落ちていく。スプーンをくわえて、彼女はもう一度私の前に指を一本差し向けた。
「私が外側に立ち寄ることはかまわないの。でも内側に残ることは嫌がるよ」
「今までも何冊か貸してくれたことはあったじゃない」
「そうだね。でもその時、後輩ちゃんもいっしょに意見を出していたのを覚えてる?」
 たしかにそうだった。図書室で、帰り道の本屋で、または後輩の家で、私たちは本の話をくり返してきたけれど、級友が本を勧めてくれるのは後輩がいる前でだけだった。
「そんなこと、いつから意識してたの」
「最初から?でもそうしようと自分で決めたのは何回か後輩ちゃんと会ってからだよ」
「あの子のことも気に入っているんだね」
 級友は緑色に浸かったストローをがぶりと噛んだ。勢いをつけて飲み込まれていく透明の緑色に、露わになった氷が角を丸くして音をたてた。
「そうだね。だから、二人のことを考えているよ」
紙袋の角を指先で折りながら、級友は私の目を見ないでそう言った。

 後輩の口にした言葉を、私は何度も頭に浮かべては掻き消えるのを待った。それをくり返しては、消耗されていくことを期待しいていた。
私はあの子のなかに、私がしっかりと息づいてしまっていることを後悔していた。
 その後悔があまりにも自分勝手なものなので、余計に内側の暗雲は厚みを増していっていた。もう嵐はひとつでは済まないほど発生して、私を取り囲んでいる。

 冬がゆっくりと進み、昼の気温が穏やかな湖面に漕ぎ出すような上昇をはじめた頃。私の登校の頻度があまりにも多いので、先生たちは不思議に思っていただろう。
放課後の図書室、いつもの席に座りながら、本を開いた。雲が少ないおかげで、日中はすこし暖かさを感じる窓際だが、放課後にはすでにその弱弱しい暖かさは去り始めていた。暖房が弱く入っているけれど、足首を掴む冷たい手を意識の外へ追いやることは難しかった。後輩が来るまでの静かな時間を、ここで過ごすのもあと僅かだった。
ふと、目線を感じて顔を上げると、カウンターの中に珍しい人を見つけた。私が気付いたことで、その人は軽く手を振った。ちょっとこっちに来い、ということなのだろう。素直に椅子から立ち上がった。今日はまだ私をいれて二人しか生徒はいない。できるだけ静かに歩き、私はカウンターに肘をついて覗き込んだ。
「先生、何かご用ですか?」
「いや、用事はない。最近どうだ、的な会話をしようと思っただけだ」
 黒髪が微妙な長さでうねっている。目が以外に切れ長できれいな形をしているけれど、眼光が鋭いためにあまり目を見て話をしてもらえないことが多い。彼はそれをひょうひょうと生徒に話してしまう教師だった。こうして放課後、居場所をつくることが不得手な生徒のために図書室が開放されているのは、彼が陰ながら力を貸してくれているからだった。それなのに図書室に顔を出すことが希な教師なのだ。少し変わっている人だと私は認識していた。
「的、とか言わないほうが先生らしいんじゃないですか」
「放課後くらい、先生もらしさから解放されたい」
「それを一般論のように言わないでください」
「元気そうだな」
「そうですね。元気です」
この教師は、私がこの時期になっても毎日のように登校していることを変に気遣わない教師だった。声は掛けるが、頻繁ではないし、何か相談はないかとも言わなかった。ただ元気かどうかを確認して終わる。今日もこれで会話が終わるのかと思っていたが、そうではなかった。先生は少し私と話がしたいと言って立ち上がった。
「ここじゃ出来ない話ですか」
「あんまりな」
「私、後輩を待っているんですが」
「知ってる。その後輩がくるまでには終わらせる」
「分かりました」
 その返事を聞き終わる前に、教師は準備室へのドアを大きく開けて私を振り返った。かすかに口元が引きあがったように思ったが、すぐに教師は準備室へと入っていった。それに続いて入る。中は狭いだけで、図書室と大して変わりない様子だった。本棚が壁一面にあり、本がびっしりと入っている。ひとつ職員室にあるのと同じタイプのデスクが置かれているとくらいしか違いが無かった。
教師はデスクとセットの背もたれのついた椅子に腰をおろし、私には側に立てかけられていたパイプ椅子を勧めた。近すぎない距離でお互いが向かい合った。こうして放課後に教師と向かい合うなんてことは、いったいどれくらいぶりのことだろう。懐かしいとは思えなかった。どこか寒々しいような現実感のなさが、胸の中を通り過ぎていく。
「いったいどんなお話ですか」
「せっかちだな」
「途中でお話が終わったら、気になって眠りが浅くなるかもしれませんから」
「それは、後輩が来たら問答無用で帰るっていう宣言だな」
「まだ外が暗くなるのは早いですから」
 教師があっさりとした溜息を吐いた。少しばかり背筋を伸ばしてこちらを見る。それを受けて、私もお腹に少し力を込めた。
「話は、その後輩のことだ」
「はあ」
「あいつの一番仲のいい人間はお前だろう?」
「たぶん、そうです」
「あいつがクラスでどういう過ごし方をしているか知ってるか」
「いいえ」
 後輩と会うのは放課後に限られていた。どちらかが言い出したものでもなかったが、お互いのクラスへ出向いたりすることは一度もなかった。だから後輩のクラスでの様子も、まったく知らなかった。クラスでのことを聞いたこともなかったかもしれない。
「いや、べつに浮いているってわけじゃない。勉強もそこそこ頑張っているみたいだから、それも心配はしていない」
それではいったい何が問題だというのか。私の訝しがる顔をみて、教師はふっと息で笑った。
「心配ってほどのことじゃないんだ。ただ、毎日のようにこうして会っている人間がいなくなるってことは、学校の内側に残る人間には異常に孤独に感じられたりするものだからな。卒業して忙しくなるのは分かっているんだが、後輩のこと、少し気をつけてやってくれないか」
 教師の言葉に、私は曖昧に頷いて笑った。
 立ち上がって準備室を出た私に、合わせたかのように後輩が前のドアから図書室へと入ってきたところだった。

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