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子どもみたいな屁理屈がウケる子どもみたいな社会で

先月6月はプライド月間で、こちらスウェーデンの第二都市でも色々なイベントや啓発運動が催されました。首都ストックホルムのプライドイベントは例年8月に行われ、今年もきっと盛大に開かれることと思います。

最近は日本でも多様性を受け入れる動きが目に見えて表れていますね。こちらの図書館のアカウントがあると「Pressreader」というアプリを無料で利用できることを知り、その中に毎日新聞も含まれているので時々読んでいるのですが、記事の見出しに「多様性」や「ジェンダー」という言葉が大きく出ているのを見て、日本もいよいよ何かしないとなという気になったのだと、喜ばしいことだなと思います。

ただ日本にありがちな、言葉だけ先走って本来の意味を理解していないという現象がここにも多々起きているんじゃないかと。「メタバース」「SDGs」などなど、かっこよさげな名前だけをひとまず取り入れて謳い文句にする文化、とりあえず形だけ定着させてしまうやり方は、まあ良い点でもありますが、当事者、関係者からすると、配慮に欠けているように感じる部分も発生します。そもそも発信している側に確かな理解がなく、メディアも曖昧にしか説明せず名称だけを多用する動きは今も昔も同じですね。

先日、ふと目にした団塊世代男性著名人のツイートに「女性の役員比率上昇は、三割が自分が女性だと自認すれば簡単に達成できる」というものがあり、心底呆れました。その上返信されたツイートは、一休さんを見て感心したような人々の肯定的なものばかり…まあ所詮はツイッターのエコーチェンバーでしょうから、ここだけが世論では絶対にないのですが。

赤ちゃんがいないないばあで驚いて喜ぶのは、赤ちゃんの視界に入らない領域は全く存在しないものとみなされるので、その目に見えない世界から突然何かが現れるのが不思議だからだと聞きます。

自分の周囲で出会って来なかった違う文化背景を持つ人、複雑な性自認や家庭の形に向き合う人、表立って分からない障害や難病を抱えている人…その立場に立って発言のできない人は赤ん坊の視野から成長していないのではないのかと。赤ん坊視野を咎められない社会もまた、赤ん坊なのではないのかと思うのです。

私自身、幼少期から自分自身の性別と社会から求められる性別の違和感を抱きながら、崩壊家庭と封建的な社会を生き延び、今はスウェーデンという日本よりもずっと成熟した民主主義社会で生き直して、同じような問題に向き合い悩む人々に対して軽率な発言は決してできません。

どんな人にも多かれ少なかれ悩みはあると思うのですが、その悩みを理解しない他人から「言ってるだけじゃないの」と一蹴されたらどうでしょうか。それさえなければ楽に生きられるのにと思いながら何年も悩み続けてきたことを、です。

自分の目には見えない場所で生きている人々も確実に存在していると意識すること、またその人々に変に干渉せず自然の摂理として受け入れておくこと、環境を変化させて行くためにその人々も全て含めて考えること。多様性のある社会とはまずそういった個人の姿勢から始まることではないでしょうか。

赤ん坊視野で発せられた子どもみたいな屁理屈がウケる子どもみたいな社会では、まだまだこの変革を手放しで喜べないまま、しかしながら子どもはたくさん間違って学んでいかなければならないのも確か。これから、これから…

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