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発達障害は本当に増えたのか?

ここ数年、子どもか大人かに関わらず、何かしら伝達に難があったり、著しく協調する力に欠けていたりすると、まず「発達障害」を疑うことが一般的になりつつあるように思います。それは発達障害のある人間が増えたからなのでしょうか?

私個人の感覚では、今の世で「発達障害」と言われるような行動を取る人は昔からある一定数いて、それが今までは特に大きく問題にはならなかったのが、最近になって「問題」として取り上げられるようになってきたということではないかと感じています。

情報に溢れ、変化が多くまたそのスピードも加速し、その中でいくつものタスクを同時にこなして行かなければならない状況が、飽和することもなく更にレベルを上げつつある今。その上AIによって人間の仕事は減り、経済資源も自然資源も減少の一途を辿る中、時代はある意味、生き残りをかけた原始のサバイバルに似た緊張感を持ち始めています。

今の政治家世代の青年期、いわゆるバブル時代には、少々コミュニケーションに難があろうが、仕事をうまくこなせなかろうが、ひとりにひとつくらいは衣食住に困らない程度の仕事があって、心配事や不安を煽られるような余計な情報も耳に入らず、「なんとかなっていた」のではないでしょうか。

それが今の若年、青年層には「どうしようもない」世の中になってしまった上、この世の中を生き抜く術を誰も教えてくれなかったので、コミュニケーションや情報処理にハンデを抱えた人たちが自分自身でやり過ごそうとしてうまくいかず、困った社会がひとまず「発達障害」と札を貼ってより分けた結果、その数は増え続けることになってしまったように思えます。

すなわち、発達障害はその当事者と家庭だけに責任があり、背負ってしまった人は不運だった、と片付けてしまうのは乱暴で、災害や公害問題と同じぐらい実質的なケアが必要になっていくのではないかと私は考えます。

例えばアーティストになるにしても、昔はギャラリーやパトロンがつきやすく、アーティストは自分のコアとなる活動をしているだけで良かったのが、今は宣伝から資金稼ぎ、確定申告などまで自分でやらなければならず、しかも日本はそこから更に税金を絞り取ろうとまでする始末。勉強が苦手で教室にじっと座っていられない子を、将来アーティストになるから大丈夫、と楽観視してあげることも残念ながらできません。そしてそういう子どもの親にも、今後の身の振り方を独自に教えてあげられる人はかなり少ないと思います。

まずその当事者たちに「発達障害ですよ」と札を貼って、自身で変化を求めやすいようにするという点では札を作ることは有効と言えますが、ではその次にその人たちをどこへ行くよう促すのかについてはまだまだ指針がなく、結局は迷っている人を別の迷路に送り込んでしまってはいないでしょうか。

指針や形はひとつだけてなくて良いはずです。川魚は川へ、山鳥は山へ、くらいの大きな選択肢と受け入れ先を早く多く増やすことが必要だと私は考えます。

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