【#15 冷や汗】恥ずかしながら、
7月になった。2019年も、半分終わった。
そうなると、カルチャーキッズのSNSには「上半期ベスト」という言葉で溢れる。音楽、映画、アニメ、などなど。人々、というかその個人が熱狂した作品たちで、タイムラインが溢れる。
それらに一つ一つ、いいねを送りながら、自分が過ごしてきた上半期を振り返る。面接の前に落ち着かない気持ちで聴いたTHE NOVENBERSの『ANGEL』。令和になり、自分の誕生日を迎えた瞬間にネタバレをして怒られた『アベンジャーズ:インフィニティー・ウォー』。
生活の中にカルチャーがあるのか、カルチャーの中に生活があるのか、だんだんわからなくなってきている、のかもしれない。
そんな人々の2019年を切り取ったSNSのタイムラインを追っている時に、ふと目についてしまうのは、聴いたり観ていないものばかりだったりする。
例えば「スパイダー・マン:スパイダーバース」。これを観ていなければ2010年代のアニメは語れない、らしい。
あるいは「愛がなんだ」。退廃的な男女関係を描く映画はだいたい好きなのだけれども、なんとなく見逃してしまった。
自分が触れていない作品があることに気づくとき、なぜか湧き上がる感情が「恥ずかしながら、」だ。読点の後に続く言葉は「観ていません」であったり、「聴いてません」する。
この感情は、一種の焦りなのか、後悔なのか、はたまた罪悪感なのか。判別がつかない。ただ僕は、素晴らしく新しい作品たちにまだ触れていないことに、冷や汗をかいているのだ。
でも、なぜ、冷や汗をかくのだろう。
「新譜は今しかディグれない」と言ったのは、たしか小袋成彬だったか。
新しいものを、新しいものとして触れられるのは、「今」しかない。10年後に「2019年の新作」に触れた時には、それは過去の作品になっている。そしてその時代には別の「新しいもの」が誕生している。
そんな風に自分にはどこか「新しいものに触れていたい」という強迫観念がある。
生活の周りを取り囲んでいるものたちを、どんどん更新していくことで、絶えず自分を新しくできる、とどこかで信じているのだろう、と他人事のように思っている。
そういえば小袋成彬は、常に自分の中で自然に思考の変化が起こり続けている、そうしないとどんどん自分が廃れていく、とも言っていた。
だから彼はアルバムを作り、エッセイを書き、ロンドンへと旅立った。歌ものJ-POPたちが流れるのが常であったアネッサのタイアップでは、チルなエレクトロトラック「Summertime」を提供した。それがCMで流れている光景は、なかなか痛快だ。
そんな、通念に囚われず、常に変わり続けて新しい自分、というものへの憧れが、素晴らしく新しいものに触れ続けている理由なのかもしれない。
そんなわけで、この2ヶ月間は「新しいものに触れていたい」という強迫観念に浮かされて、ずっと「ゲーム・オブ・スローンズ」を見続けた。
諸侯たちが7つ王国を統治する玉座を狙う物語は、国とは、忠義とは、善悪とは、家族とは、正しい選択とは、といった問いを、登場人物たちを通してひたすら視聴者に投げかけた。そしてその答えは、完結してもまだ宙吊りにされたままだ。
ただ最後の最後、シーズン8の最終話が終わる10分前に出てきた言葉が、一つの真理であった。
「人々を統治するのは、物語だ」
ここで言う物語は、必ずしもフィクションやカルチャーのことではない。人々は権威や歴史といった物語のようなものを信じて生きている、というのがこの言葉の真意であろう。
それでもこの言葉によって、他人の架空の物語に囲まれ、熱狂しながら、世の中を生きていこうとしている自分を、恥ずかしながら、肯定したくなる言葉だった。
そんなふうに、新しい物語たちに生活を統治されながら、2019年も過ごす。
そんなことを思いながら、次は「ストレンジャー・シングス」が待っている。再生ボタンを押す手は、多分少し汗ばんでいる。
(ボブ)
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