見出し画像

言葉の重みを知りたい、知らなくてはならない

ある友人と、こんな話をした。

「自分と他人は絶対に違うんだけど、たまに共通点を持った人がいて、そういう出会いができると嬉しくなるんだよね。同じであることは、私にとってとても尊いものなんだ。」
「…同じっていうのは、絶対に違うことを無視しているようで受け入れがたい表現だな。」
「…確かにそうかも。似ているが適当だったね、ごめん。」

言葉の捉え方は人それぞれだとは分かっていても、なかなかそのことに気づけるわけではない。


李琴峰さんの「肉を脱ぐ」という小説を読み、言葉の重みを知りたいという感情に共感した。
言葉の世界を、観念的で、しがらみのない自由なものだと思ってしまうことはある。
でも、それは自分が言葉の含む意味を想像できないだけなのだ。
一つ一つの単語の意味を吟味しながら文章をつないでいくことは、深い集中の中で気づけば苦しくなりながら行われる。


この前の小旅行で「外側に意識を向ける」というアドバイスを実践していた。
見えているものをただ見る、という簡単なことが刺激になった。
それまでは見えているものから意味を読み取ろうとして、連想される別のことを考えていたが、見ることに集中すると考え事をする余裕はなくなった。
そして、目に入るものの印象は普段よりも強くなった。

そんな試みをしながら、美術館に足を運んだ。
するとライブで衝撃を浴びた後みたいに、頭の中に言いたいことが溢れてきた。
ただし、以前はそれをノートに書きだす手が止まらなくなっていたのだが、今回は逆に動かなくなった。
文字になる寸前で、記憶の中のその対象が「違う」と歯止めをかけてきて、再び言葉の選択が始まっていく。
客観視が及ばないほどに深い集中の中で、苦しかった感覚が残っている。


言葉を選ぶとは、苦しいことだ。
その事に思い至った時、あまり考えずに送ったメールのことを思い出した。
相手がしんどさを抱えていることを打ち明けてきたメールに対して、手触りの良さそうな言葉を吟味しないで並べて返してしまった。
未だそのメール以降返事はなく、後悔と申し訳なさだけが渦巻いている。

だから、そういう軽薄なふるまいを繰り返さないためにも、言葉の重みを知りたい。
小説を読んでたどり着いたのは、「現実の不自由と向き合い、苦しみ、見つめることで、不自由は言葉の重みへと昇華される」という考えだった。
現実を見つめ、言葉を見つめ、ひたすらに一歩を重ねるほかには叶わないと思う。


最初の会話をした友人は、とてもゆっくり話す人で、時に苦しそうな表情を浮かべながら絞るように言葉を選んでいた。
私もそうありたい。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?