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1年2か月続けた音訳ボランティアについて振り返る

2022年の8月から始めた、視覚障害者の方のための音声訳(以下:音訳)ボランティアの活動でしたが、このたび、やめました。
つい先日、町の社会福祉協議会の方にご連絡し、ICレコーダー、CD-R、それを入れて郵送するための空のディスクケースを返却してきたところです。

すべてのボランティアをやっている方に、そしてこだわりや自己承認などで悩んでいる発達障害の方などに、ぜひ読んでほしい文章です。
最後までよろしくお願いします。


音訳ボランティアを始めたきっかけ

新型コロナウィルス流行時、各地の図書館のお話し会などが立て続けに中止になり、僕の所属している「かなざわ紙芝居俱楽部」も公演機会が激減しました。
そんな中登場した音声SNS・clubhouse。
声だけでたくさんの人とつながれるというこのSNSは、文字とはまた違うリアルタイムな会話が魅力で、雑談をしたり、共通の話題で盛り上がれたりなどが楽しくて、現在でも特定のroomでお世話になっています。
(著作権の関係で何でもできるのではなくちょっとつまらないと感じてしまうこともあるものの)朗読を楽しむroomや、プロのナレーターの方のナレーション・朗読の「道場」のようなお部屋もあったりなんかして、とても勉強になりました。

そこでclubhouseの仲良くなった皆さんによく褒められたのが、
「声の良さ・明朗さと、活舌の良さ」。
紙芝居以外でこれをどこかで活かせないものか‥。

そんな時に思いついたのが音訳ボランティアでした。


“音声訳”とは、活字資料(印刷物)を音に変換する(声でプリントする)作業のことで、印刷された文字のほか、図、表などを必要に応じて音声変換します。聞き手を主体として読むという点において、いわゆる“朗読”とはここが大きく異なるところです。音訳者には標準語で読むことが求められます。
(中略)この研修では“ことばが明瞭で聞き取りやすい”読みと録音技術、参考資料の活用等を習得していただき、実際に活動していただくボランティアの養成を目的としています。

社会福祉法人石川県視覚障害者協会
「音訳ボランティア養成研修の受講を希望される皆様へ」

ところが‥
石川県視覚障害者協会の情報によると、音訳ボランティアグループ「いしかわ音訳の会」に加わるためには、平日(木曜日)に開催される16回もの養成研修に参加しなければなりません。仕事をしている僕には難しいです。
またリップノイズ(クチャっていう音)が出ていないか、マイクテストもクリアしなければ研修への参加資格がないのだとか。

その時、自分の住む町の社会福祉協議会の入り口に、町の広報誌や議会だよりを音訳するボランティア募集の案内がありました。
問い合わせてみたところ、「やる気さえあればどなたでも参加OK、特に必要な研修や資格もいらない」とのことで、仲間に加えてもらいました。

さらに、社会福祉協議会の音訳ボランティア窓口の方が、
「パソコン強いですか?ICレコーダーで録音した皆さんのデータを集約・編集して、CD-Rにコピーする作業もやってほしいんです。お願いできませんか?」
と頼んできました。それまでは仕事の後に細々と作業をしていて、利用者の方にわたるころには、広報誌発行からかなり日数が経ってしまっていたとのことで、僕は二つ返事で引き受けました。

毎月5日に広報誌が町ホームページにアップされたのを確認して、参加人数でページを分担します。
約5日間かけて各自で録音してもらい集まったICレコーダーを、社会福祉協議会の方に、家まで届けてもらって編集作業をしました。
僕は、主に毎月第二火曜日が心療内科の通院で、休みをいただくので、その日に間に合うように編集を完成させ、社会福祉協議会にお届けしていました。
編集がとてもきれいで早く、視覚障害者の利用者様からとても喜ばれている、というお話をいただき、またとても上手に音訳されていることも褒めていただいて、これこそ「自分の特技が活かせて人の役に立つことができる最高のボランティア」だと思っていました。


僕の特性が‥~編集時のこだわりと辛さ~

しかし、そこで「こだわり」と「聴覚過敏」という(発達障害の、という見方もできますが)僕の特性がはたらいてしまいます。
編集段階で、何人かの人の収録の出来に疑問を感じたのです。

  • 紙などの擦れる音や周りの音が聞こえる

  • 咳払いや、「えー」「失礼しました」などの声が挟まれていても録音を止めずにそのまま収録している

  • 「リハーサルをしていないのでは」と思えるほどの読み詰まりや読み間違い、不自然な間の取り方

  • アクセントの間違い

これらは、聴覚が敏感な視覚障害の方にとっては、聞きにくさとして感じられてしまうのではないかと思ったのです。

①無音部分をカットする
②複数ページ分が一つのトラックに入っているので分割する
③ページの途中で別れてしまっているものを結合する

この三つは、無料の「Sound Organizer(サウンドオーガナイザー)」というプログラムでできます。
①については、カセットテープ時代から続いているボランティア団体であり、そのころからの癖でしゃべりだしの時間が長い人がいることから出るもので、一秒でも早く音声が再生されるように配慮したもの。
②③については、きちんと広報誌のページとして読めるように配慮したからです。
しかし、前述の件については、音訳について書かれているサイトなどのほとんどで「利用者にとって、聞き取りにくい(ストレスを与える)読み」としてNGであるとされています。

飛び飛びとはいえ編集時に何人かの聞き取りにくい録音を聞いていて、聴覚過敏の自分は正直とてもしんどかったです。
「これが視覚障害の方だったらもっとつらいはずだ」と思ったと同時に、
「正しさ・本来のあるべき姿は何か」と「利用者様のことを第一に考える」
ということを考えたとき、「これはとてもじゃないけれど納得できない」と思ってしまったのです。

ボランティア仲間に加わって最初の仕事を終えた時、僕は「編集をしてみて感じたこと・今後の課題」をWord文書にまとめてみなさんに読んでもらったり、連絡用グループLINEに掲載したりしました。
ボランティアメンバーの“おばさま達”の反応は、
「そんな風に細かく厳しく言われたら、やる気や自信無くす」
というものばかりでした。
仕方がないので僕は、社会福祉協議会の窓口の方と、ボランティア代表の方にのみ、メールで修正点・お伝えしたい点をお送りするとともに、毎月誰かしらある「あまりにもひどい」という録音があれば、僕自身で再録音をしました。

ちなみに、ボランティアの代表を務めているのは、なんと地元民放放送局の元アナウンサー!
プロフェッショナルとして、よりよい方向に持っていってくれるかと思いきや、ただ読むパートを振り分けることをするだけで注意点など何も告げず、勉強会は年に一度、現役か他のOBアナウンサーを呼んでやるだけ。
今年の9月にもその勉強会があり、僕は参加できなかったのですが、聞くところによると、具体的にこんなところはこんなふうに呼んだらいい、みたいなテクニック的なことを話し合ったり、統一感を出したりということを、何にもしないで終わっちゃったっていう感じ。
それよりも、どういう内容だったかを通り起こして、
「多少方言が混じっていても、アクセントが間違っていても、楽しくやれれば、それでいいです」
みたいなことを最後に講師の方が言ったらしく、それを真に受けた(一部の)メンバーさんは、何の改善点もないまま、聞きにくい、または扱いに困る録音を続けていました。
僕はますます悔しくなりました。


止めさせられた再録音

2023年10月分の収録が終わって、いつものように社会福祉協議会の方とボランティア代表の方とに、お伝えしたいことをメールしたところ、数日後に代表の方から、
「数人の方の録音をこれは聞き取りづらいからということで、再録音をしてしまうのは、やめてほしい」という返信がきました。
「ボランティアの皆さんは一生懸命録音に取り組んでいらっしゃいます。個人差はあるかもしれませんが、再録音されるということは、その部分を読んでいる人の存在を無くしてしまいます。再録音されたと知ったらみんな悲しんで、やめてしまいます。どうぞ、そこのところを汲み取って、来月は再録音しないで戴きたく切にお願いいたします」
と‥。

僕はすごく悩みました。
「こだわり」の部分と「それっくらいいいがいね(金沢弁:いいじゃないか)」の線引きをどうしたらいいのか
そもそも、音訳ボランティアは視覚障害の方の立場に立ってやらなくちゃいけないものなのに、どうしてボランティアメンバーのことを優先するのか‥?

他県他市で音訳ボランティアをしているオンライン友達に聞いてみました。
「視覚障害の方は、通常の方よりも耳が敏感ということ、さらには、イヤホンで聞いているかもしれないということを考えれば、雑音や読み間違いなど、スムーズに聴くために妨げになるものは、できるだけ省くというのが普通だよ」と言ってくれました。
担当の方が結構厳しいのですが、そのうえで、「もっと良いものを・視覚障害の立場に立った録音を」ということを大前提にしており、毎回大変ですが、楽しくやっているとのことです。

僕の尊敬する友達も言ってくれました。
「再録音をしているボランティアの方にもっと精進してもらうべき。 役に立ちたいと思うことは素晴らしいのですが、ボランティアの精神は相手の立場に立って相手の気持ちを理解することが大前提。ですから、視覚障害者の方にとって不便さが解消されるものを提供できない方は、活躍の場がなくなるのは当然。でも、にしむーさんが向上心を求めたからといって『えー、そんなこと言われても』『そんな風に言われたらやる気なくすわ』などと言って辞め(たくなっ)てしまうのは、その人の意識が低いということだと思います」

僕は思い切って社会福祉協議会の方に相談してみました。
代表の方との間に入ってくれている方だったら、利用者さんの声を受け止めたりとか、間を取り持ってくれるだろうと思いましたが、
「ここのボランティアの皆さんはそんな人たち(=切磋琢磨して技術を磨こう!というような感じ)ではない」
「カセットテープ時代から粛々とやってきた人、忙しい中でやっている人のことをもっと考えて」
と言われてしまいました。

ボランティアとは気持ちがあればなんでもいいというものではなく、その上で、自分の行動やスキルが支えたい人のためになっているかを冷静に判断できないとだろ?と思い、本人の自覚を促すために「音声の聞き比べ」「利用者さんの声を、アンケート調査するなりしてもっと聞いて届けること」をしてはどうか、と提案したのですが、それも消えてしまいました。

長い付き合いがある、もう一人の社会福祉協議会の方から心配のLINEが届きました。
「このまま声のボランティアを辞めてしまうのはもったいないと思います。にしむーさんの高い音訳能力、編集能力、向上心はすごく必要とされています。ただ、ボランティア団体を瓦解させる再録音という行為をやめていただければ一緒に走っていけると思いますし、そこがおとしどころなんだと思います」
と。
でも、録音を全く聞かずにデータだけ収めるというのは危険な行為だと思いますし、僕はそこまでいい加減な仕事を引き受けたくありませんでした。
百歩譲って、ボランティアは金銭などの報酬が発生しないことと、さまざまな意識の人がやってくるという面は確かにあります。求めているレベルも、ボランティア像も全然違うことは出てくると思います。
でも「それはボランティアあるあるだから」って、それをよしとしている人たちにも若干問題があるんじゃないか?と。
ボランティアさんたちの言い分を聞いていると、すごく不愉快に感じてしまいました。
なんだか「やってやってるんだぞ」感がすごくあって。


自分を悦ばせるというコトは自分の環境を自分で選ぶというコト

いつもお世話になっているカウンセラー&コーチ的な方と会話をして、こんな話をいただきました。

「詰め込みすぎってわけではないけれど、にしむーはけっこーいろんな事やっているから、そこ(音訳ボランティア)は離れてもいいかもね。
やっていることはすごくハイレベル。
でもそこで発揮しなくてもいい。
『どうしてもやりたい』ではないのなら、手放したほうがいい。
欲張らないことも大事。
空き時間を作ること、空白の時間を作ることも大事。
【自分の機嫌は自分でとる】のが大前提。
機嫌を悪くするところにわざわざしがみつく必要はないかな。

でもそこで僕は考え込んでしまいました。
「一度やると決めたことは最後までやる」っていうのを母から言われてずっと大切にしていました。
トロンボーンだって、仕事だって。
持続性・継続性をほめられることが多かった、それを強みだと思ってたのに、それを手放していいんだろうか?
「執着」「~ねばならない」をどうやって手放せばいいのか?と。

そこでさらに得た教え。

大事なことは【やりたくないことはやらない、今自分がどう思っているか】。
『一度やると決めた』のは過去の自分。今の自分はそう思っていない、としたら‥手放してもいいんじゃない?

長所と短所は見方次第。長所にもなるし短所にもなる。
長所は短所になるし、短所は長所になる。
同じことなんだけど、受け取り方によっていろんな側面が出てくるわけよね。
こだわりってなったら短所になっちゃって、でも好きだからって続いていたら長所になって。
にしむーが持続してできていることは『楽しんでやっていた』から続けてこられたのよ。
楽しいことは『続けよう』と無理やんこ思わなくても続けていけるものなのよ。
周りからは『頑張ってきたね』って言われても、本人としては『楽しいことをやっただけ』だから何にも“頑張った感”がないのね。
努力はしたかもしれないけれど、いやいややったわけじゃないし。
続けなければならないっていう表現は『いやなのに我慢してやってる』ってこと、そんな継続持続は自分の機嫌を取れないよね」

「後ろ髪は多少引かれることはあるかもよ。自宅に広報が届けられて、
『あーこれ本当だったら今月も自分音訳していたんだよな~』って思うことがあるかもしれない。
でもそれも織り込み済みで、勇気をもって自分のために「手放す」ってことをする」
【自分が環境を選ぶって大事
自分を悦ばせるコトは自分の環境を自分で選ぶというコト】

どう思ったとしても「今の自分が思ったこと」だから認めることが大事。自分を許すってのはそーゆーこと。
ほっとした余裕や隙間に、いいことがいっぱい入ってくるし、にしむーの味方はたくさんいるから大丈夫!。


おわりに

今にして思えば、聴覚過敏で人一倍耳が過敏な自分にとって、すごく大変な仕事をしていたんだなと思いました。
そして、それまでのボランティアのいくつかが「人の役に立つ」という側面だけでなく、「もっと人のために頑張っている僕を認めて」という気持ちも含まれていたことに気づきました。

「あのね、にしむー。【自己承認を得るためには他者承認が必要】なのよ。
今のにしむーには『こんないいとこあるよね』ってたくさんの人が言ってくれる。
若かったころは、そう言ってくれる人が少なかったし言われ慣れてなかった‥。だからいろんな人のところに行ったり、人の役に立とうと必死だったんだよね。
その言葉にどのくらいの頻度で接しているかにもよるのヨ
自分が自分を愛すれば自分は人から愛されるの。
すべては自分から。

今の僕は、こだわりと嫌な束縛から解放されて、前よりも穏やかで平穏で幸せな日々を過ごしています。
今までやってきたことは無駄ではないし、その先役に立つこともあるだろうし、今は拾ってくれる人待ちかな?という感じです。
そういう意味において、音訳ボランティアを辞めたことで、自分が新たなフェイズ(phase=段階)へ行けたのではないかと胸深く思っています。

最後までお読みいただき本当にありがとうございました。

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